◎この案のとおり実行しなければならぬ(サザランド参謀長)
河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。
やがてグループ毎の検討は終わり、一同もとの席に着いた。サザランドは一時その席をはずして室外に出ていたこともあったが、私には、私の説明にたいする彼側の態度、その後の感知した空気などから、相当大幅の修正を見るのじゃないかと思われたが、会議再開となって、改めて彼側の示したものによれば、私らの東京に帰った後五日間の余裕を与うるいわば妥協案であった。すなわち先発隊の厚木到着が〔八月〕二十六日、マ元帥の日本到着二十八日、調印三十一日というのである。
そこで私は、再び、更に延期するの必要を説いた。要旨は、
《くり返して申した如く、私の気持ちは無意味に延期を主張するのでは断じてなく、また勝利者たる貴方〈キホウ〉が一日も早く進駐したいと希望をもつ気持ちはよく了解できる。要は、この際数日間の準備期間をおしんで、日本側が誠意をもってしても、なおかつ事故が起こる心配のある状態を避けようというにある。私は調印月日を著しく延ばすことを必要と認めない。第一次進駐部隊を受け入れるまでに約十日間を与えようというにある。もし、貴方が、勝利者の権威をもって、われわれを強いらるれば、われわれはこれに服するのほかはない。しかし、私の良心をもって〝引き受けた〟と回答することはできぬ。もし、貴方がどうしてもこれでやるというならば、私はここにハッキリと申しておくことは、「不安がありますよ」ということです。》
と述べたところ、サザランドは、更に陸海軍のわが代表たちのいうところも聞いて、地図をとり出して距離などを測ったりして、遂に、最後的に、
《この案のとおりでやらねばならぬ。私は日本側の誠意を諒とし、そのいうところの理由をも了解するが、われわれはこれでやらねばならぬ。》
と突っ放すような言葉つきでいった。
そこで私は、いささか声の調子をおとし、
《私は日本将校として、かけひきのようなことをいいたくないが、少しでもよりよき状態を望むが故に今一度いう。この際は一、二日でも大きな意義があるから、もう一、二日だけでも、更に延期する寛大性を貴方は持たぬか。》
といったところ、彼は、
《われわれはこの案のとおり実行しなければならぬ。日本政府および日本軍の努力を望む。》
と答えた。私は、サザランドの言動に対し、少しの不快を感ぜず、たしかに「よい軍人だ」との印象も手伝って、ここで折れた。そして〝努力はする〟と返答した。彼は、満足げな表情をし、明日午前九時三十分から、この場所で第三回の会同をなすこと、また、その際は、政府側の代表も列席するようにとの指示をして去った。
一同は席を立ったが、米側の諸氏が罐詰のビールを開いて、わが方に饗した。むし暑いこの地の夜半、そのビールの味はすてきであった。勿論賑やかな雑談をしたわけでもなかったが、彼側の態度はいかにも友誼的で、すぐそのあとに仕事が待っているかの如き挙措、そのあり様はわれわれ一行にも、今まで食うか食われるかで争っていた仇敵だなどという感じを起こさすものがなく、国際共通の軍職心理、殊に幕僚業務の共通性、私にはその辺の空気になんともいえぬなごやかさを覚えた。
宿舎に帰り着いた時はもう夜中一時頃であったろう。宿舎に私宛にウィロビー氏の名刺を付けた紙包が届けられてあった。それは煙草とウィスキーであった。
今朝四時過ぎ東京の宿舎を出たまま、いままでとかく神経を張り詰めていたのであったが、宿舎に帰っても、疲れたナとも思わず、私は寝床に入ってもすぐは眠られなかった。その眠られぬ原因の最大のものは、戸外の雑音と、人の声であった。マニラの八月の夜、窓戸を開け放さなければむし暑くてたまらず、このように騒々しいのは、おそらく夜間街頭の活動が活発なのであろう。
私はあけ方近くなって数時間熟睡した。しかし、勉強家の随員諸氏は、徹宵していろいろと検討したらしく、未明に私を起こして意見を持って来てくれた。私は敬意と謝意とを表しないわけにいかなかった。
翌八月二十日、月曜日である。明け方マニラの空は密雲で雨模様であったが、朝から強い大粒の雨となった。
昨夜の随員間の研究で、米側に対する将来についての質疑事項を整理し、今日直ちに回答を得なくても、その書類だけでも残してゆこうということになったが、その後更に検討の結果、かえって後害をまねくおそれもありと思われ、こうした質疑をしないということにきめた。
敵側の進駐期がわれわれの求むるよりも五日も早くなったので――彼ら当初の案をいくらか譲ったとはいえ――取り敢ず一機分の人員を東京に帰し、準備を幾時間なりと早く着手するに便しようと、その一機の差し出し方を申し入れたが、米側は承知しなかった(昨夜敵側の意図の要旨を東京宛電報することを許すよう求めたが、これも許さなかった)。
午前九時半から開始予定の本日の会同を一時間延刻、十時半からとする旨通知して来た。その理由として、昨夜の書類に多少変更するところもあるから‥‥ということであったから、私はあの彼側の進駐ブログラムを若干でも変更したかも知れないなどと、期待をかけていたが、そのうちに送り届けられた書類を見ると、その変更がなされてなかった。しかも予め、十時三十分からの会同では、書類に掲げられている文意についての質問はさしつかえないが、内容の改変に関する意見はきかぬと言明して来た――昨夜はあまり寛大に過ぎたと後悔したのかも知れない。
宿舎から、迎えられて、十時三十分、昨夜の室に入った。今日は岡崎〔勝男〕外務省局長も列席した。
サザランド参謀長は、書類の要点を朗読した。私は、〝降伏実施に関する連合国最高司令官として、中国軍またはソ連軍と日本軍との間における何事かのトラブルが起きるような場合に必要な指示をされるか?〟との質問を発したところ、〝それに関してわが方にはなんらの権限がない〟との答であった。
われわれは更に若干文書上の疑いをただしたが、内容の改変を促す発言は、今の場合無意味のトラブルの発生を避けるために行なわなかった。
最後に、東京に伝達すべき三種の文書を改めて手交され、十二時近く、全会譲の終わりを宣せられたから、私は、立って、われわれがマニラ滞在間に与えられた先方の好意に感謝の意を述べたところ、サザランド氏もまた、わが方の協力に対して謝意を表し、一同解散をした。
『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』の第五章第六節「マニラへの使節」は、このあと、「帰路、夜半海浜に不時着」、「復命」の項に続くが、この両項は、すでに、当ブログで紹介済である。