礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

そう言えば一度、怖い目に会った(山本茂男)

2024-01-21 01:10:49 | コラムと名言

◎そう言えば一度、怖い目に会った(山本茂男)

 今月9日に「本書執筆の発端は『月刊日本語論』に発表した拙論(小泉保)」という記事を載せた。その中で、『月刊日本語論』という雑誌、山本書房という出版社、および、山本茂男という編集者について触れた。
 1993年(平成5)から翌年にかけて、将棋研究家として知られる越智信義さん(1920~2014)から、『月刊日本語論』の最新号をいただいていたことがある。書架を探してみると、創刊号を含むバックナンバーが四冊出てきた。越智さんは、山本書房の山本茂男さんと親しくされているというお話だった。
 山本茂男さんは、大修館書店で月刊誌『言語』の編集をされていた方である。1992年(平成4)5月に同書店を退社されたあと、山本書房を立ち上げ、『月刊日本語論』を編集・発行されていた。
 その山本さんに、『編集後記』(木本書店、1992年6月)という著書がある。新年になってから、アマゾン経由で同書を取り寄せた。すこぶる興味深い本で、数日間で読了した。
 同書の「雑記」部に、「茅ケ崎だより――最近の木村十四世名人」というエッセイが載っていた。越智信義さんの名前が、そこに出てくる。本日は、このエッセイを紹介してみよう。なお、「茅ケ崎だより」の初出は、『将棋世界』の1982年7月号だという。

  茅ケ崎だより――最近の木村十四世名人

  他人に分かりますかい!
 茅ケ崎は東海道線を下りで一時間、夏は海水浴客でにぎわうところである。駅を左手に降り、タクシーに乗って「木村名人の家」と告げれば、まちがいなく出口町のお宅の前までつれていってくれる。
 白い塀の門がいつも開かれていて、庭を通ると季節の花木が美しい。松林が奥に見える広い庭である。「やあもっさん」、名人は山本の名をこんな風に呼ばれる。
 「この松林はいい松で、昔はショーロが出ました。」不勉強でまことに申し訳ないことだが、ショーロというものを知らない。
 「丸いきのこみたいなものです」と〝松露〟を教えていただいた。「松はこれでずいぶん手がかかるものです」ともつけ加えられた。
 名人はおだやかで、話し好きな人である。「温厚な方ですね」と、ご子息の木村義徳〈ヨシノリ〉八段に感想を述べると、「あなたは昔の父を知らないから」と、笑っておられた。当方、棋書の編集は初めてで、将棋界のことは何も知らない駆け出しである。
 そう言えば一度、怖い目に会った。昭和五二年〔1977〕の初夏『木村名人実戦集』を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究家の越智信義氏に同道を願って、茅ケ崎のご自宅へ伺候した。
 当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星〈スガヤ・ホクトセイ〉氏、金子金五郎〈キンゴロウ〉氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、一五〇局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。
 ところが、この話をじっと聴いておられた名人、「御趣旨は誠に有難いが」と、ここでいったん言葉を切り、続けて「だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」と言うと、口を一の字に結び左端をきっと引きしめて、はったと両名を見すえたのである。越智さんも私も一瞬ことばを失って、ははと平伏した。この恐ろしさは、後々まで二人の間の語り草となっている。
 瓢箪から駒がでたような具合だったが、結局、名人の希望ということで、全巻書き下ろし自戦記という空前の企画がここに成立することになった。
 「今はほら、録音器っていう便利なものがある。あれでやりましょう。」
 これも名人の提案である。数度の打ち合わせで内容が定まり、巻数が最初の三巻から五巻乃至七巻、最終的には八巻というように増えてきた。大修館書店としては、前の『将棋名人戦全集』に続く大出版である。
 録音を速記にとると、名人がその原稿に朱書を入れる。校正で加筆もする。気がるに、「やりましょう」とは言われたが、一体、健康がもつだろうか。関係者がもっとも恐れたのはこのことである。もしものことがあっては、とりかえしがつかない。しかし、名人がやると言っている以上、こちらもできる所までやってみようと性根をすえた。
 越智さんが、自宅の資料だけでは足りず国会図書館に通いずめで棋譜をさがしてくる。名人が選局して、一局一局並べなおす。棋譜の間違いがよくあるからである。恐らく誤植か誤記なのであろう。そして、解説しやすいように、これも名人が一局を数枚の局面に割る。割った譜を、途中図、第一図、第二図、というように作図するのだが、「私がやりましょうか」と申し出たところ、「いえ、これは義徳にやらせます」と、きっぱりおっしゃった。
 御子息の義徳先生(当時B2の七段であった)に、譜面の浄書と全巻の校正をさせるというのである。失礼ながら、高段者のやる仕事ではないと思った。しかし、これを義徳先生は、忠実に、正確にやってのけられた。そして御存知のように、その間、B1、A級八段と一気に駆けのぼったのである。名人は、義徳七段に何が不足しているのかを知っておられたのであった。獅子は獅子の子を知る。

 このエッセイは、「他人に分かりますかい!」、「義徳八段の霊魂論」、「休まず一五〇〇字」の三節からなるが、今回は、最初の節のみ紹介した。
「木村十四世名人」とは、「常勝将軍」として恐れられた将棋棋士・木村義雄(1905~1986)のことである。文中にある『木村名人実戦集』の企画は、『名人木村義雄実戦集』全8巻(大修館書店、1978~1981)となって、無事、刊行を終えている。

今日の名言 2024・1・21

◎獅子は獅子の子を知る

 獅子は、自分の子の鍛え方を知っているという意味か。上記コラム参照。「獅子の子落とし」ということわざから連想した、山本茂男さんのオリジナル名言であろう。

*このブログの人気記事 2024・1・21(9位になぜか村八分)

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