◎亀山トンネルは避難者でいっぱい
上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」を紹介している。
本日は、同章から、「浜松市大空襲」の節を紹介したい。この節は、かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
浜松市大空襲
昭和二十年六月十八日夜、敵機大編隊による焼夷弾爆撃によって、浜松市は全焼し焼野原の廃虚と化したのである。
その頃から敵は日本主要都市の集中爆撃を開始し、前夜は豊橋市を攻撃した。
十八日夜は市公会堂の表彰式から帰えって、十一時頃まで隊にいて官舎に戻り着替えて床に入ろうとすると、空襲警報が発令され、「敵機伊勢湾上空に旋回中」との情報である。早速軍装を整え妻も防空服装となって玄関に出ると同時に、バラパラと火を曳いた焼夷弾が落下して来た。
裏門前の家並はたちまち火災を起している。分隊構内にも落下して火焔を吹いている。構内の焼夷弾は隊員によって消止めた。
「全員ひるまず消火にあたれ」
とどなりながら消火にあたったが、第二波と思われる爆音が近付いたかとおもうと、今度は焼夷爆弾である。一斗樽のようなボンベが落ちたかと見ると、大音を立て、破裂して火の海となる。それが分隊長室と道場に二発命中した。たちまち庁舍は燃えあがった。もうバケツや砂では駄目だった。
「全員消火を止めて、退避せよ」と命令して独り構内に残った。
官舎に戻り二、三回妻を呼んでみたが返事がない。ふと坪庭〔中庭〕を離れた分隊の道場を見ると、ものすごい勢で燃えており、官舎のガラス窓が熔けて落ちるのを見た。床の間の腹這い人形がわたしを見あげているように見えた。手提げカバンが眼についたが、もうそんな物を持ち出そうとする気は起こらなかった。再び庭の中央に立って、周囲の家や庁舎の猛火を見つめていた。
「城主は城と共に死す」
不断からの覚悟が頭の中にこびりついていて、のがれ出ようとする気は起こらなかった。
厩〈ウマヤ〉はまだ燃えずにいる。二頭の軍馬は先刻馬丁が放っているのを見た。煙がようやく身の回りを包みはじめた頃であった。
普済寺の方から露路〈ロジ〉の火焔をくぐって三浦軍曹と誰か二人が突入して来て、私の手をとらえ、
「分隊長殿死んではだめです。奥様も先程遠電トンネルに避難させてあります」とせき立てるのであった。
三人に押されるようにして、燃える軒下の露路をかいくぐって、普済寺〈フサイジ〉に避難した。普済寺も燃えていた。隊員の詰所に借りてあった寺坊〈ジボウ〉も、音を立てて燃えている。
崖下〈ガケシタ〉に造った待避壕の前に行くと「全員無事であります」と報告をうけて安堵する。
その時また大爆音が起こって焼夷弾が落下した。壕外に立っていると背筋に異様な感覚を感じた。軍靴の踵〈カカト〉から三十糎〈センチ〉ほどのところへ、弾筒が突ささって火を吹いた。遠州鉄道のトンネルを通って、鹿谷〈シカタニ〉から分隊正門の方へ出ることにした。
トンネルの中は避難者で一ぱいである。人ごみを分けて行くと、「お父さん、分隊は焼けてしまった?」と問う妻の声に呼び止められた。分隊の東隣り肥料店の二階に間借りしていた米山曹長の奥さんも一緒であった。
トンネルを越して杉浦さんの宅の前を正門に出ると、入口の馬繋所とその下の書類格納壕の延焼を喰い止めるため、隊員が消火活動中であった。やがて敵機の爆音も去り、僅かに正門脇の馬繋所(自転車置場)書類兵器格納壕と、道路をへだてた杉浦さんの店とを残して、付近一帯の民家とともに庁舎は灰燼と化してしまった。焼け跡に全員を集めて点呼した。幸い集まった者の中には負傷者もなく、感慨深げに残り火を消し廻っていた。
状況を報告するため、伝令数名を磐田方面に派遣し、軍用電話、逓信電話、鉄道電話等によって、静岡地区隊長に報告することを命じた。【以下、次回】
文中、「遠電トンネル」とは、遠州鉄道奥山線の元城〈モトシロ〉駅・広沢駅間にあった亀山隧道(亀山トンネル)を指す。遠州鉄道奥山線は、廃線になっているが、同トンネルは、現在も史跡として保存されている。
「馬繋所」の読みは不詳。あるいは「ばけいじょ」か。