◎麻原彰晃と二・二六事件
むかし作ったスクラップ・ブックを取り出して見ていたところ、1995年(平成7)12月22日の東京新聞の記事があった。
非常に興味深いと思い、スクラップしておいた記事である。全文を紹介してみる。
オウム法廷から
麻原被告「今なら1000人で主要箇所制圧できる」
二・二六事件引き合いに/小銃の大量密造を指示
森山被告ら初公判で/詳細明らかに ステーキ振る舞い担当メンバーを督励
「二・二六事件は何人の兵士が決起したか知っているか」「今なら千人で主要箇所を押さえられる」。オウム真理教代表の麻原彰晃被告(四〇)が元教団幹部・早川紀代秀被告(四六)とこんな会話を交わした後、教団の武装化の一環として自動小銃約千丁の密造を指示するなど武器密造の詳細な経緯が二十一日、東京地裁で開かれた元教団信者、森山誉之被告(二一)らの武器等製造法違反事件の初公判で明らかになった。
検察側の冒頭陳述や証拠採用された早川被告らの供述教書によると、麻原被告は平成四年〔1992〕末ごろ、早川被告と故村井秀夫幹部=死亡当時(三六)=に、「教団で自動小銃を製造する。ロシア製の自動小銃の現物を見たい。ティローパ(早川被告)はロシアに知り合いが多いから、それくらいはできるだろう」とロシアでの調査を命じた。
それより前に早川被告は麻原被告から「二・二六事件は何人の兵士が決起したか知っているか」と聞かれ「千四百人です」と答えた。麻原被告から「よく知ってるな。今なら千人で主要箇所を押さえられる。自衛隊や米軍が攻めてきたら破れるか」と再び聞かれ「自動小銃やロケットランチャー、手りゅう弾があればできるかもしれない」と答えていた。
早川被告は「小銃の製造はハルマゲドン(最終戦争)からの生き残りを意識したしたものと思った。当時、自前で工場も造っており、小銃を造ることは荒唐無けいな話だとは思わなかった」という。
麻原被告は自動小銃約一千丁と銃弾約百万発の製造を決め、密輸したロシア製自動小銃「AK74」の部品をもとに教団「科学技術省」所属の横山真人被告(三二)を総括責任者に命じて量産を指示。昨年〔1994〕二月、横山被告ら科技省の主要メンバーを千葉県内のホテルに集め「一、二カ月で造れ」とステーキを振る舞った。
同年十一月、麻原被告は量産とは別に小銃一丁の年内完成を指示。今年元旦に横山被告と広瀬健一被告(三一)が「供物を持ってきました」と完成品を持参すると麻原被告は「新聞には『上九でサリン濃厚』という記事が出るし、お前たちは小銃を造って持ってくるし、きょうはほんとにすごい日だ」と言って小銃を手にした。
麻原被告は満足げに引き金を引くなどして小銃を詳細に検分した後「よくやった」と二人をねぎらい、広瀬被告に「あとは弾だな」と指示。広瀬被告はその後、密造に従事した信者全員を集め「尊師は大変喜んでおられました。みなさんの努力が功徳になって実りました」と督励したという。
初公判では森山被告のほか島本靖司被告(三四)、倉沢豊被告(二六)の罪状認否が行われ、三被告とも「上からの指示で小銃の部品を造った」と出張した。
読売新聞は、1995年1月1日、上九一色村(かみくいしきむら)にあったオウム教団施設の周辺の土から、サリンの残留物が発見されたというスクープ記事を載せた。このことについて麻原彰晃は、「きょうはほんとにすごい日だ」と発言している。なぜ、「すごい日」だったのか。おそらく麻原は、このスクープによって、サリンを用いたテロの即時実行を決断し、ボルテージが上がったのではないか。
一方、早川紀代秀は、小銃の製造について、「ハルマゲドン(最終戦争)からの生き残りを意識したしたものと思った」と述べている。これも意味深長な言葉だが、早川は、おそらく、麻原からある計画――サリンの散布によって首都の機能を停止させたあと、千人ほどの武装したオウムの戦士によって権力を奪取するという計画について、聞かされていたのではなかろうか。
むかし作ったスクラップ・ブックを取り出して見ていたところ、1995年(平成7)12月22日の東京新聞の記事があった。
非常に興味深いと思い、スクラップしておいた記事である。全文を紹介してみる。
オウム法廷から
麻原被告「今なら1000人で主要箇所制圧できる」
二・二六事件引き合いに/小銃の大量密造を指示
森山被告ら初公判で/詳細明らかに ステーキ振る舞い担当メンバーを督励
「二・二六事件は何人の兵士が決起したか知っているか」「今なら千人で主要箇所を押さえられる」。オウム真理教代表の麻原彰晃被告(四〇)が元教団幹部・早川紀代秀被告(四六)とこんな会話を交わした後、教団の武装化の一環として自動小銃約千丁の密造を指示するなど武器密造の詳細な経緯が二十一日、東京地裁で開かれた元教団信者、森山誉之被告(二一)らの武器等製造法違反事件の初公判で明らかになった。
検察側の冒頭陳述や証拠採用された早川被告らの供述教書によると、麻原被告は平成四年〔1992〕末ごろ、早川被告と故村井秀夫幹部=死亡当時(三六)=に、「教団で自動小銃を製造する。ロシア製の自動小銃の現物を見たい。ティローパ(早川被告)はロシアに知り合いが多いから、それくらいはできるだろう」とロシアでの調査を命じた。
それより前に早川被告は麻原被告から「二・二六事件は何人の兵士が決起したか知っているか」と聞かれ「千四百人です」と答えた。麻原被告から「よく知ってるな。今なら千人で主要箇所を押さえられる。自衛隊や米軍が攻めてきたら破れるか」と再び聞かれ「自動小銃やロケットランチャー、手りゅう弾があればできるかもしれない」と答えていた。
早川被告は「小銃の製造はハルマゲドン(最終戦争)からの生き残りを意識したしたものと思った。当時、自前で工場も造っており、小銃を造ることは荒唐無けいな話だとは思わなかった」という。
麻原被告は自動小銃約一千丁と銃弾約百万発の製造を決め、密輸したロシア製自動小銃「AK74」の部品をもとに教団「科学技術省」所属の横山真人被告(三二)を総括責任者に命じて量産を指示。昨年〔1994〕二月、横山被告ら科技省の主要メンバーを千葉県内のホテルに集め「一、二カ月で造れ」とステーキを振る舞った。
同年十一月、麻原被告は量産とは別に小銃一丁の年内完成を指示。今年元旦に横山被告と広瀬健一被告(三一)が「供物を持ってきました」と完成品を持参すると麻原被告は「新聞には『上九でサリン濃厚』という記事が出るし、お前たちは小銃を造って持ってくるし、きょうはほんとにすごい日だ」と言って小銃を手にした。
麻原被告は満足げに引き金を引くなどして小銃を詳細に検分した後「よくやった」と二人をねぎらい、広瀬被告に「あとは弾だな」と指示。広瀬被告はその後、密造に従事した信者全員を集め「尊師は大変喜んでおられました。みなさんの努力が功徳になって実りました」と督励したという。
初公判では森山被告のほか島本靖司被告(三四)、倉沢豊被告(二六)の罪状認否が行われ、三被告とも「上からの指示で小銃の部品を造った」と出張した。
読売新聞は、1995年1月1日、上九一色村(かみくいしきむら)にあったオウム教団施設の周辺の土から、サリンの残留物が発見されたというスクープ記事を載せた。このことについて麻原彰晃は、「きょうはほんとにすごい日だ」と発言している。なぜ、「すごい日」だったのか。おそらく麻原は、このスクープによって、サリンを用いたテロの即時実行を決断し、ボルテージが上がったのではないか。
一方、早川紀代秀は、小銃の製造について、「ハルマゲドン(最終戦争)からの生き残りを意識したしたものと思った」と述べている。これも意味深長な言葉だが、早川は、おそらく、麻原からある計画――サリンの散布によって首都の機能を停止させたあと、千人ほどの武装したオウムの戦士によって権力を奪取するという計画について、聞かされていたのではなかろうか。
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