◎立川市とその周辺は「軍都」となっていた
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その三回目で、「立川駅午前一〇時四八分」の項(45~51ページ)を紹介する。ただし、途中、47~49ページにあたる部分は割愛する。
立川駅午前一〇時四八分
時刻表では、新宿駅を出た四一九列車は三八分後の午前一 〇時四八分に立川駅に入線することになっていた。しかし、出発がかなり遅れていたことから、実際に立川駅に到着したのは、午前一一時をまわっていたらしい。
当時立川は、多摩地区にあっては軍需によって最も発展している都市だった。
武蔵野台地の農村だった立川は、大正年間末の一九二二(大正一一)年、陸軍用飛行場(現・立川防災基地)の建設により「軍都」として発展を始める。一九三〇(昭和五)年には東京の月島にあった石川島飛行機が飛行機工場を完成させ(後に立川飛行機と改称)、一九三八(昭和一三)年には北に接する砂川村に分工場を設けた。同じ年、その北の大和村(現・東大和市)には東京瓦斯電気工業が航空機用発動機工場を作り(翌年、日立航空機立川発動機工場と改称)、また、立川の西北の昭和村(現・昭島市)では一九三八年昭和飛行機工業が操業を始めている。このように立川の周囲には日本を代表する軍需産業、軍事施設が市内外に集中し「軍都」となっていたのである。
また鉄道も、中央線・青梅線のほか、一九三〇年三月に南武鉄道(現・JR南武線)が開通して川崎と結ばれ、同じ年の七月には五日市鉄道〈現・JR五日市線〉も開通して、青梅町〈オウメマチ〉や五日市など沿線の西多摩郡の各村とも結ばれるなど交通の要衝でもあった。
こうしたことから立川市は、一九四五(昭和二〇)年四月四日以降、数回にわたってB29による空襲をうけた。爆弾や焼夷弾は立川市内外の軍需工場、軍事施設ばかりでなく市街地にも落ちて、大きな被害が出ていた。また、八月二日の八王子空襲の際にも、「側ずえ〔傍杖〕」空襲を受けていた。
艦載機やP51の機銃掃射を受けることもしばしばで、七月八日にはP51の銃撃のため立川駅で男性車掌一名が即死し、女性車掌一名が重傷を負っていた。
この立川駅からも、四一九列車に、山梨県の自宅や疎開先に向かう人たちが乗った。
【中略】
こうしてさまざまな目的を持った多くの人を乗せた四一九列車は、発車時刻の午前一〇時四八分から遅れつつ発車した。おそらく時刻は午前一一時前後だったのだろう。
列車はまもなく多摩川の鉄橋を渡り、日野駅を通過し、切り通しの間を進んで行った。この北のいわゆる日野台には東京自動車日野製造所(現・日野自動車工業)や六桜社(現・小西六写真功業)の工場がある。六桜社の経理担当取締役の渡辺由三郎(五一歳)も、この列車に乗りあわせていた。この年の春にできた諏訪工場に、火災保険契約のため行く所だった。
やがて列車は豊田駅を過ぎ、浅川にかかる橋を渡った。まもなく列車の窓からは、八王子が見えてきた。しかし、それはかつての八王子ではなかった。都下随一の繁栄を誇った桑都〈ソウト〉の面影はなく、一面の焼け野原には焼け残った土蔵がぽつんぽつんと建っているのみであった。夜ともなればそれらの土蔵に急に空気が入って、炎を吹き上げ、焼け落ちる光景があちこちに見られた。
八月二日の午前〇時過ぎ、八王子はB29一六九機による六七万個の焼夷弾攻撃を受け、旧市街地の八六パーセントが焼失していた。八王子駅一帯には万町〈ヨロズチョウ〉への第一弾からやや遅れて焼夷弾が落ち、駅舎はたちまち大火災につつまれ駅本屋をはじめとして、多くの付属施設が焼失した。ホームの屋根なども焼け落ち、鉄骨の柱と梁〈ハリ〉が残るのみであった。
四一九列車は焼け落ちた八王子駅に、立川から約一〇分で到着した。到着予定時刻の午前一一時三分よりかなり遅れていた。午前一一時一五分には警戒警報が出されていたから、到着した時は警報の発令中だったのかもしれない。ここでは列車は四分ほど停車する予定だった。〈45~51ページ〉
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その三回目で、「立川駅午前一〇時四八分」の項(45~51ページ)を紹介する。ただし、途中、47~49ページにあたる部分は割愛する。
立川駅午前一〇時四八分
時刻表では、新宿駅を出た四一九列車は三八分後の午前一 〇時四八分に立川駅に入線することになっていた。しかし、出発がかなり遅れていたことから、実際に立川駅に到着したのは、午前一一時をまわっていたらしい。
当時立川は、多摩地区にあっては軍需によって最も発展している都市だった。
武蔵野台地の農村だった立川は、大正年間末の一九二二(大正一一)年、陸軍用飛行場(現・立川防災基地)の建設により「軍都」として発展を始める。一九三〇(昭和五)年には東京の月島にあった石川島飛行機が飛行機工場を完成させ(後に立川飛行機と改称)、一九三八(昭和一三)年には北に接する砂川村に分工場を設けた。同じ年、その北の大和村(現・東大和市)には東京瓦斯電気工業が航空機用発動機工場を作り(翌年、日立航空機立川発動機工場と改称)、また、立川の西北の昭和村(現・昭島市)では一九三八年昭和飛行機工業が操業を始めている。このように立川の周囲には日本を代表する軍需産業、軍事施設が市内外に集中し「軍都」となっていたのである。
また鉄道も、中央線・青梅線のほか、一九三〇年三月に南武鉄道(現・JR南武線)が開通して川崎と結ばれ、同じ年の七月には五日市鉄道〈現・JR五日市線〉も開通して、青梅町〈オウメマチ〉や五日市など沿線の西多摩郡の各村とも結ばれるなど交通の要衝でもあった。
こうしたことから立川市は、一九四五(昭和二〇)年四月四日以降、数回にわたってB29による空襲をうけた。爆弾や焼夷弾は立川市内外の軍需工場、軍事施設ばかりでなく市街地にも落ちて、大きな被害が出ていた。また、八月二日の八王子空襲の際にも、「側ずえ〔傍杖〕」空襲を受けていた。
艦載機やP51の機銃掃射を受けることもしばしばで、七月八日にはP51の銃撃のため立川駅で男性車掌一名が即死し、女性車掌一名が重傷を負っていた。
この立川駅からも、四一九列車に、山梨県の自宅や疎開先に向かう人たちが乗った。
【中略】
こうしてさまざまな目的を持った多くの人を乗せた四一九列車は、発車時刻の午前一〇時四八分から遅れつつ発車した。おそらく時刻は午前一一時前後だったのだろう。
列車はまもなく多摩川の鉄橋を渡り、日野駅を通過し、切り通しの間を進んで行った。この北のいわゆる日野台には東京自動車日野製造所(現・日野自動車工業)や六桜社(現・小西六写真功業)の工場がある。六桜社の経理担当取締役の渡辺由三郎(五一歳)も、この列車に乗りあわせていた。この年の春にできた諏訪工場に、火災保険契約のため行く所だった。
やがて列車は豊田駅を過ぎ、浅川にかかる橋を渡った。まもなく列車の窓からは、八王子が見えてきた。しかし、それはかつての八王子ではなかった。都下随一の繁栄を誇った桑都〈ソウト〉の面影はなく、一面の焼け野原には焼け残った土蔵がぽつんぽつんと建っているのみであった。夜ともなればそれらの土蔵に急に空気が入って、炎を吹き上げ、焼け落ちる光景があちこちに見られた。
八月二日の午前〇時過ぎ、八王子はB29一六九機による六七万個の焼夷弾攻撃を受け、旧市街地の八六パーセントが焼失していた。八王子駅一帯には万町〈ヨロズチョウ〉への第一弾からやや遅れて焼夷弾が落ち、駅舎はたちまち大火災につつまれ駅本屋をはじめとして、多くの付属施設が焼失した。ホームの屋根なども焼け落ち、鉄骨の柱と梁〈ハリ〉が残るのみであった。
四一九列車は焼け落ちた八王子駅に、立川から約一〇分で到着した。到着予定時刻の午前一一時三分よりかなり遅れていた。午前一一時一五分には警戒警報が出されていたから、到着した時は警報の発令中だったのかもしれない。ここでは列車は四分ほど停車する予定だった。〈45~51ページ〉
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