◎今も「吉良の赤馬」という郷土玩具が作られている
今年も年末が近づき、「討ち入り」の話題を耳にするようになった。
昨年の一二月四日のコラムで、旧吉良家領の上州白石村では、明治維新まで忠臣蔵の芝居を許さなかったという話を紹介した。
その後、ほかにも似たような話があることを知ったので、本日および明日は、その話を紹介したい。出所は、朝日新聞中部支社報道部編の『夏草の跡――愛知県郷土史話』(朝日新聞中部支社、一九五四)という本である。
同書の中に、「吉良上野介義央」という一篇がある。本日は、その前半を紹介してみたい。
吉良上野介義央
(西暦一六四一~一七〇二年)
忠臣蔵、義士伝ではカタキ役の吉良上野介義央(ヨシヒサ)も、その旧領地の幡豆郡横須賀村では「名君義央公」とその治績をたたえられ、土地の人々はいまも変らぬ遺徳を語りついでいる。
吉良氏はもと足利三代の義氏(源頼朝の義理のオイ、妻は頼朝の娘)が三河の地頭となって、初めて西条(いまの西尾市)に城を築き、後さらに東条―いまの横須賀村駮馬(マダラメ)にも築城、長男義継を東条に、二男長氏を西条においた。このあたりは古くから雲母(キララ、キラ)を産し、西尾市八ツ面(ヤツオモテ)の山から盛んに掘っていたが、最近はどうやら掘りつくしたということだ。雲母に因んで吉良ノ荘と呼ばれたので、この地の足利氏も土地の名をとり吉良氏といったが、西尾氏今川には長氏の二男国氏が住み、これは後の今川氏となったもので、足利―吉良―今川は血縁の名門であった。
西条の吉良氏は天文六年(西暦一五三七年)織田信秀に通じて今川義元に攻められ、ついで永禄四年(西暦一五六一年)松平氏のため城を奪われたが、一方東条は今川、松平両氏とよく、吉良持広は松平広忠(家康の父)のエボシ親となり、持広の孫義定は家康とイトコ同士という関係から、特に家康に目をかけられ、元和三年(西暦一六一七年)幡豆郡のうち七カ村三千二百石を与えられた。その子義弥(ヨシミツ)に至って高家(コウケ、幕府の儀式係の長官)に列し、上州で千石を加えられ、上野介を名乗ったが義央はこの義弥の孫であった。
横須賀村大字岡山の背撫山(セナデヤマ)と呼ぶ小山の中腹に登ると、すぐ東の黄山(キイヤマ)のふもとまで約百間の山あいに見事な堤防が横たわっている。現在はこの堤防の東端は一部切り開かれて県道が走っているが、堤防の北側には青田が続き、その向うに須美川、広田川が望まれる。かってこれらの川がハンランすると濁水が地勢の低い西南部に流れ込み、この狭い山あいから横須賀、吉田の一帯を水びたしにして農民を苦しめた。貞享三年(西暦一六八六年)九月義央は隣の西尾藩の反対を押し切って高さ十三尺、堤脚二間強の土手をこの山あいに築かせたが、この工事には領民がこぞって協力して一夜のうちに完成したという。その後この土手は吉良領内はじめ付近一带に非常な恩恵を与え、人々は黄金堤(コガネヅツミ)と呼んで義央の徳をほめたたえた。
写真【略】 吉良義央の築いた黄金堤(幡豆郡横須賀村)
また義央は横須賀村下河原から吉田町高島まで約二里にわたって幅四間の用水路を開き、元禄元年(西暦一六八八年)には吉田町小山田に約九十八町歩の新田を開いた。この新田は義央の夫人富子の名から富好(トミヨシ)新田と呼ばれた。用水はいまも田畑のカンガイに役立ち、新田は後に塩田となって「饗庭(アイバ)塩」を産したが、いまの塩田はやや前面に移っている。このように領内の民政に深く心を用いた義央は、領地に帰ると必ず赤い馬に乗って領内をすみずみまで見て回り、領民たちから慈父のように親しまれた。領内駮馬村の清兵衞という人がこの赤馬のオモチャをつくり、子供らに与えたのが始まりとなって、いまも「吉良の赤馬」という郷土ガン具がつくられている。【以下、次回】
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