◎忠臣蔵の芝居をすると火事が起るという言い伝え
朝日新聞中部支社報道部編『夏草の跡――愛知県郷土史話』(朝日新聞中部支社、一九五四)から、「吉良上野介義央」という文章を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
義央の陣屋は〔愛知県幡豆郡横須賀村〕大字岡山の殿町(トノマチ)にあり、いまもその跡に「陣屋の椿」が記念碑とともに残っているが、ここから西へ 一、二丁いったところに吉良家のボダイ寺華蔵寺(ケゾウジ)がある。この寺には池大雅の描いた見事なフスマ絵三十六面があって、さきに紹介した額田郡岩津町大樹寺の冷泉(また岡田)為恭の絵とともに名高い。ここには義央の木像が先祖の義安、義定の像と一緒にまつられ、また義央が寄進した鉄眼(テツゲン)の一切経を納めた経堂や義央遺愛の茶器などがあるが、代々の立派な墓がならぶなかに、義央とその子義周(ヨシカネ)の墓だけはいかにもみすぼらしい。
写真【略】 吉良義央の「陣屋の椿」(横須賀村大字岡山字殿町)
元禄十五年(西暦一七〇二年)一二月十四日、義央が赤穂浪士の襲撃に討たれて、吉良家は断絶、義周は後に上諏訪に流され客死した。その後華蔵寺では義央父子の分骨を請い受けて墓を建てたが、この墓石の大きさが名門吉良家の盛衰をはっきり物語り、義央の不運な最期をしのばせている。
盛衰を墓石に秘めて義央忌 ―蓬丘
ゆく春やにくまれながら三百年 ―鬼城
その後、世の忠臣蔵全盛に吉良上野介義央はずっと白眼視されてきたが、この村の義央に対する敬愛の気持は年々強くなり、昭和六年〔一九三一〕、二百三十年祭が行われたときには、村を二つに割るような政争の真最中だったのに、この企てに村民が一致して手をにぎり、また大正十四年〔一九二五〕から始まった村の耕地整理にも起工、完工の式はいずれも義央墓前で行われた。またこの村でば忠臣蔵の芝居をすると火事が起るといいつたえ、明治ごろまでは絶対に行われなかった。もっとも昭和になってからは時々は行われるようになったが、芝居の前には必ず義央の墓にお参りするという。華蔵寺では毎年新暦十二月十四日の夜、義央忌の句会と法要が営まれ、旧の十二月十四日は横須賀村の「吉良公史蹟保存会」が追弔会を行うほか、十年、二十年目ごとに盛大な法要が営まれる。
松風や恩讐もなく義央忌 ―野蒜
赤穂義士討入りのとき、きり死にした清水一学(俗にいう一角)は横須賀村宮迫(ミヤバサマ)の生まれ、元禄五年(西暦一六九二)義央が十五歳の少年藤作を認めて江戸につれ帰り、一学と名のらせた。その墓が宮迫の茶臼山のふもとにあるが、華蔵寺住職黒柳禅英師の話だと、その子孫がこの村に残っているということだ。また尾張藩士で京都三十三間堂の通し矢に名をあげた星野助左衛門(西暦一六四二~一六九六年)も同じ宮迫の出身である。
ところで義央の相手の浅野内匠頭長矩(タクミノカミナガノリ)の先祖は一宮市浅野の出身、秀吉の正室寧々(ネネ)の妹婿浅野長政で、長政の第三子長重が父の隠居料五万五千石を継ぎ、その子長直のとき常陸から播州赤穂に移った。その孫が長矩で、本家の浅野氏は当時芸州広島四十二万六千石の城主であった。それはともかく、興行界ではいつも景気直しといわれた忠臣蔵熱に、世の冷い憎悪を一身に受けてわずかに旧領地にいれられた義央の不運は思えば哀れなものがあろう。かつてこの華蔵寺を訪れた歌人土屋文明氏も「雲母(キラ)寺に古しへの話聞きをれば、人の世はいまもいつはり多し」とよんでいる。
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