◎ケルロイター、民主主義の再教育を批判(1955)
昨日の続きである。ケルロイターの『国家学概説』(一九五五)に対する、大串兎代夫教授の書評(『名城法学』第五巻第二号、一九五六年一月)を紹介している。本日はその二回目。
昨日、引用した部分のあと、改行して次のようにある。
著者の、国家学は政治的科学でなけれぱならないという主張は、国家学は現実科学(Wirklichkeitswissenschaft)であるという考えにうらずけられている。この考えは、著者の「一般国家学」(Allgemein Staatslehre,1933)にも述べられているが、この著書の方が、その考えの内容が如実にあらわれてきている。国家学の現実科学であるという考えは、著者の根本主張であるから、精確に著者自らの言葉を引用する必要がある。
「すなはち国家学は政治的科学である。それは現在の政治的現実を探究し、叙途せんとするものであるから、現在科学(Gegenwartswissenschaft)であつて、本来の意味における歴史科学ではない。国家学の指標は将来にあり、過去にはない。しかし現在の政治的現実の真の理解のためには、個々の民族および国家の歴史的発展についての知識が必要である。」(十二頁)
ここで著者は、個々の民族および国家の歴史の知識が、国家の現実の理解のために、いかに必要であるかを示すために、次のような註をくわえている。
『こういう知識の欠除は、ヨーロッパについて無知識なアメリカ占領軍による民主主義再教育の試みの失敗の原因となつている。カール・フリードリヒの「近代の憲法国家」一七三頁も、これに関連して、いわゆる非ナチ化について批判的である。このことはもつと強い程度に日本の場合にあてはまる。これについては、アメリカ人Vern Sneiderの風刺的自己批判の書“The Teahouse of the August-Moon”ドイツ訳“Die Geishas des Captain Fisby”1952参照』
すなはち日本における民主主義の再教育(Reeducation)が、日本民族の歴史を無視してなされているというのである。
「故に、一民族に内在する高貴な伝統的価値の保護は、現在の政治的形成にとつて重大な意義を有する。第二次世界大戦においては、スターリニズムさえも、そのことを強調したのである。だから歴史科学は政治的科学にとつて、必須の限定をくわえるのである。」(十二頁)
「国家学は存在科学(Seinswissenschaft)であつて、当為科学(Sollenswissenschaft)ではない。国家学の使命は、国家のあたえられた存在(Sein)を政治的現実として、叙述することにあり、理念的形態(Idealform)としての国家を描出することにあるのではない。そこに国家学と国家哲学の区別がある。」(十二頁)
四 ケールロイター教授が国家学を政治的科学であり、現実科学であるとされることは、正しいと思われるが、私はその「現実」の意味をさらにすすんで「現在」とされ、いわんや「当為」(Sollen)と区別される意味の「存在」(Sein)の学とされることは正しくないと思う。社会的現実ことに政治的現実は、自然現象とはちがつて、つねに意義的現象であり、ひろい意味での歴史的現象であるから、それは歴史を背負い、当為(ゾルレン)と切りはなせない現実である。それがたんに観念の世界の中の現象ではなく、それこそ社会的な現実であることはいうまでもないが、さればといつて、これをあまりにも現在的現実に見ることは、学問の上から見て行きすぎであると思う。【以下は次回】
今日の名言 2015・8・29
◎俺が書いてやる
作家・大西巨人(1916~2014)の言葉。本日の朝の番組「あの人に会いたい」(NHK)に、早くも大西巨人が登場した。代表作『神聖喜劇』を執筆した動機について、軍隊の本当の姿は誰も書いていない、それなら、「俺が書いてやる」と思ったということを言っていた。
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