礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治維新の精神を保っているのは田中光顕先生のみ

2018-03-20 00:38:57 | コラムと名言

◎明治維新の精神を保っているのは田中光顕先生のみ

 一昨日からの話の続きである。田中光顕と井上日召の関係について、ある程度、把握したところで、井上日召が田中光顕に宛てた手紙(一九三三年九月二六日)を、もう一度、引いてみたい。

   ◎田中光顕翁へ   血盟団盟主  井 上  昭 
(前略)――清寿愈よ〈イヨイヨ〉高く老来報国の至誠益々其光を日月と比するもの迂生等〈ウセイラ〉一同仰で〈アオイデ〉以て感銘の外〈ホカ〉無之〈コレナク〉候、往昔〈オウセキ〉は知らず明治維新以来昭和維新亦将に近からんとする今日に至るまで、尽忠報国の士必ずしも絶無とは不申候へ共〈モウサズソウラエドモ〉、多くはこれ言句〈ゲンク〉の人、倖〈サイワイ〉にして名声に親む〈シタシム〉や俄ち〈タチマチ〉自家の精神を汚腐せざる者あるを不知〈シラズ〉、唯一人先生あつて徹魂日本精神者の範を後輩共に高示せられ候事〈ソウロウコト〉邦家万々歳の礎と讃仰〈サンギョウ〉の至〈イタリ〉に奉存〈ゾンジタテマツリ〉候、但〈タダ〉願くは迂生自今以後益々自重反正、先生の小指の 端になりと触ることを期するものに御座候
其後迂生心身共頑健を加へ甞て〈カツテ〉数年前高井君に伴はれて宝珠荘に参り初めて拝眉の栄〈エイ〉を得候節誓ひ候一言は、今猶ほ迂生の真生命にて其時給はりし先生の御一言も今耳底〈ジテイ〉に新に御座候(下略)―昭和八年九月二十六日―

 解説すべきところに、下線を引いておいた。
 最初の下線部「昭和維新亦将に近からんとする今日」は、このあとの「クーデター」を予見するかの如き言葉である。未遂に終わったが、一九三六年(昭和一一)の二・二六事件が、おそらく、そのクーデターだったのであろう。
 二番目の下線「唯一人先生あつて」とは、明治維新における尽忠報国の精神を、今日まで純粋に保っているのは、田中光顕先生のみ、の意味である。井上日召は、「明治維新の志士」であった田中光顕が、その精神を失わず、なおかつ長寿に恵まれた結果、「昭和維新の志士」としても健在であることに感激しているのである。
 三番目の下線「数年前高井君に伴はれて宝珠荘に参り」とあるのは、一九二五年(大正一四)前後に、同志の高井徳次郎に伴われて、静岡県庵原郡蒲原町〈イハラグン・カンバラチョウ〉に、田中光顕を訪ねたことをいう。「宝珠荘」は、晩年の田中光顕が暮らした邸宅で、現存する。
 四番目の下線「誓ひ候一言」は、井上日召が初対面の田中光顕に対し誓った一言という意味であるが、あるいは、「謀叛をやる積りです!」という一言を指すか。
 五番目の下線「其時給はりし先生の御一言」は、田中光顕が井上日召らに与えた一言という意味であるが、あるいは、「君達もしつかりおやり!」という一言を指すか。
 なお、この手紙には書かれていないが、田中光顕は、この会見の際、井上日召らに対し、「まだ三人や五人くらゐ」は叩き切れると豪語したという(昨日のコラム参照)。これは、あくまでも推測だが、田中は、このとき、具体的に、その「三人や五人」の名前を挙げたのではないだろうか。そう推測する理由については、次回。

*このブログの人気記事 2018・3・20

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田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同

2018-03-19 03:10:04 | コラムと名言

◎田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同

 田中光顕伯爵と井上日召の関係については、以前、書いたことがある。礫川編『無法と悪党の民俗学』(批評社、二〇〇四)の解説篇「無法と悪党が創った国・日本」の一節である。本日は、その一節「志士・田中光顕と血盟団事件」を、そのまま、紹介させていただくことにする。
 
 志士・田中光顕と血盟団事件
 血盟団事件【*13】の指導者として知られる井上日召【*14】の自伝『一人一殺』【*15】にも、田中光顕についての逸話が出てくる。
 井上日召とその同志・高井徳次郎は、事件の七年ほど前、下総の鹿野山【かのうざん】に活動の拠点を築くべく、土地の借り入れを画策していた。交渉にあたっていた高井は、山の所有者からその計画の責任者は誰かと聞かれ、元宮内大臣の田中光顕伯爵だと答えた。それを聞いて所有者は安心し、「喜んでお貸しする」と言った。しかしこれは、高井がとっさに思いついたウソで、田中光顕はこの計画に何の関わりも持っていなかった。
 やむなく二人は、田中のところに赴き、事情を話して事後承諾をもらうことにした。以下、原文から引用する。
《……私は初めて光顕伯に会つて、
『苟【いやしく】くも人の名儀を借りるからには、予【あらかじ】め御本人の許しを得なければならぬことはよく知つてをります。しかし、今度の事は成行き上、手続きが逆になつて、まことに申訳ないのですが国家のため、枉【ま】げて御諒解を願ひます。』
と縷縷【るる】述べた。すると、田中伯は、
『こんな大きな土地を借りて、一体何をするのか?』
と訊ねた。私は思ひ切つて、
『謀叛をやる積りです!』
『謀叛? どんな計画だ?』
そこで、私は、一方には赤化思想を駆逐し、同時に財閥・政党の弊害を打破して、日本を根本的に改革するために、かくかくの計画を立ててゐると打明けた。
『さうか!』と伯は語気も強く『儂【わし】は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる。君達もしつかりおやり!』
と励まして、快く記名調印してくれた。さうして、私は大層御馳走になり、宮内省の腐敗を慨く話などを聞いた。
 その時、田中伯は
「儂は明治天皇の御恩召に叶はぬ事をした、と判つたならば、即座に腹を切る覚悟でゐる。」
と言つた。私はこれを聞いて、功成り名遂げたこの人にして、いつでも切腹する覚悟を持つてゐるとは、流石【さすが】に維新の志士だけのことはある、と感心した。〈日本週報社版二四一~二四二ページ〉》 
 ここで井上日召は、田中が「いつでも切腹する覚悟を持つてゐる」と述べたことに対し、「流石に維新の志士だけのことはある」と感心している。しかし私はむしろ別のところ、すなわち、田中が「謀叛」という言葉を聞いて異常に興奮し、自分も「まだ三人や五人くらゐ」は叩き切れると豪語したところに「感心」した。功成り名遂げてなお、志士=革命家の心情を捨てていないように見えるからである。
 いずれにせよ井上日召は、この時以来、田中光顕との結びつきを強め、昭和二年(一九二七)には、田中が企画し完成させた大洗【おおあらい】東光台【*16】の立正護国堂を任されることになる。昭和七年(一九三二)の血盟団事件は、立正護国堂という活動拠点なしには起こりえなかったろう。その意味で田中は、「昭和維新」にもまた、深く関与したことになる。「流石に維新の志士だけのことはある」というべきか。
*13 昭和七年(一九三二)に起きた一連の暗殺・暗殺未遂事件。大洗の立正護国堂で井上日召の指導を受けた「血盟団」の団員が、「一人一殺」をめざして、井上準之助蔵相、團琢磨三井合名理事長を射殺した。
*14 群馬県出身の国粋主義者。一九三二年、血盟団事件の指導者として無期懲役となるが、一九四〇年出獄(一八八六~一九六七)。一九五四年、護国団を設立。
*15 井上日召の自伝。一九五三年に日本週報社から刊行されたが、一九四七年同社刊の『日召自伝』がその初版にあたるという。一九七二年に新人物往来社が復刊。
*16 田中光顕は、同所に常陽明治記念館も建設した(現在の「幕末と明治の博物館」)。

 以上は、注も含め、「志士・田中光顕と血盟団事件」の節の全文である。
 高井徳次郎と井上日召が、下総の鹿野山で土地の借り入れを画策していたのは、「事件の七年ほど前」だという。だとすれば、それは、一九二五年(大正一四)前後のことになる。高井徳次郎がこのとき、すでに田中光顕と面識があったのかどうかハッキリしないが、このあたりは、『一人一殺』を再読するなどして、確認してみたい。
 ちなみに、富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(弘文社、一九三三)の「巻頭に」には、「田中光顕翁秘書高井徳次郎氏」への謝辞がある(今月一二日のコラム参照)。
 また、右に、「昭和二年(一九二七)には、田中が企画し完成させた大洗東光台の立正護国堂」と記したが、いま、その典拠が思い出せない。立正護国堂の設立を昭和三年(一九二八)としている文献もあるので、このあたりについても、確認しておかなくてはならない。なお、常陽明治記念館の設立は、一九三九年(昭和一四)である。
 田中光顕(一八四三~一九三九)は、土佐の出身だが、水戸学を信奉していたためか、「水戸」との関わりが深い。一九三〇年(昭和五)には、田中光顕伯銅像建設会(水戸市上市〈ウワイチ〉柵町〈サクマチ〉)から、『青山伯と水戸』という本が出ている。【この話、続く】

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井上日召から田中光顕への手紙

2018-03-18 02:03:05 | コラムと名言

◎井上日召から田中光顕への手紙

 昨日のコラムで、満島捕虜収容所に収容されていた連合国軍の捕虜たちが、新居駅北側の浜名湖岸から、アメリカ海軍の上陸用舟艇に乗ったという話を紹介した。この話は、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)に出てくる。
 この本の著者の上原文雄氏は、当時、浜松憲兵分隊長を務めていた。舞浜海岸に上陸してきたアメリカ海軍のシンプソン少将に、日本側の責任者として会談したのが、この上原氏であった。捕虜たちを新居町駅まで搬送し、駅北側の浜名湖岸から乗船させるという方法は、この会談の際に、上原氏が提案したものである。シンプソン少将は、その場で、この提案を裁可したという。
 ところで、上原文雄氏は、五・一五事件(一九三二)が起きたときに、東京憲兵隊麹町分隊に所属する憲兵上等兵であった。事件後、氏は、事件の中心人物である三上卓海軍中尉を、浦賀町大津の海軍刑務所まで護送する任務にあたった。このとき、三上中尉が上原氏に向かって、「その持っている拳銃で西園寺を撃て」と言ったという話は、すでに、このブログで紹介したことがある(「その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)」二〇一六・一二・二九)。
 一昨日のコラムで紹介した手紙は、その三上卓が、田中光顕に送った手紙である。
 
 ここで、一昨日の話に戻る。本日は、富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(弘文社、一九三三)の第七部「事件関係者の書簡集」から、井上日召〈イノウエ・ニッショウ〉が田中光顕〈タナカ・ミツアキ〉に送った手紙を紹介してみたい。

   ◎田中光顕翁へ   血盟団盟主  井 上  昭 
(前略)――清寿愈よ〈イヨイヨ〉高く老来報国の至誠益々其光を日月と比するもの迂生等〈ウセイラ〉一同仰で〈アオイデ〉以て感銘の外〈ホカ〉無之〈コレナク〉候、往昔〈オウセキ〉は知らず明治維新以来昭和維新亦将に〈マサニ〉近からんとする今日に至るまで、尽忠報国の士必ずしも絶無とは不申候へ共〈モウサズソウラエドモ〉、多くはこれ言句〈ゲンク〉の人、倖〈サイワイ〉にして名声に親む〈シタシム〉や俄ち〈タチマチ〉自家の精神を汚腐せざる者あるを不知〈シラズ〉、唯一人先生あつて徹魂日本精神者の範を後輩共に高示せられ候事〈ソウロウコト〉邦家万々歳の礎と讃仰〈サンギョウ〉の至〈イタリ〉に奉存〈ゾンジタテマツリ〉候、但〈タダ〉願くは迂生自今以後益々自重反正、先生の小指の 端になりと触ることを期するものに御座候
其後迂生心身共頑健を加へ甞て〈カツテ〉数年前高井〔徳次郎〕君に伴はれて宝珠荘に参り初めて拝眉の栄〈エイ〉を得候節誓ひ候一言は、今猶ほ〈ナオ〉迂生の真生命にて其時給はりし先生の御一言も今耳底〈ジテイ〉に新に御座候(下略)―昭和八年九月二十六日―

「井上昭」は、井上日召の本名である。文中、「小指の 端に」のところで、一字欠けているが、これは原文のまま。なお、この手紙を読解するためには、若干の予備知識が必要である。まずは、田中光顕と井上日召の関係を把握する必要がある。これについては、次回。

*このブログの人気記事 2018・3・18(9位に極めて珍しいものが入っています)

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飯田線ひらおか駅と東海道線あらいまち駅

2018-03-17 05:43:07 | コラムと名言

◎飯田線ひらおか駅と東海道線あらいまち駅

 一九四五年(昭和二〇)九月初旬、長野県下伊那郡天龍村の満島〈ミツシマ〉捕虜収容所に収容されていた連合国軍の捕虜が、解放されることになった。
 連合国軍の捕虜(二〇〇名弱か)は二団に分かれ、飯田線満島駅(現在の平岡駅)から、それぞれ、第一列車、第二列車に乗って、飯田線の終点・豊橋駅に向かった。これが、捕虜搬送用の専用列車であったかどうかは確認していない。列車は(あるいは、捕虜の乗った車両は)、そのまま、東海道線の上り線に入り(これも、確認したわけではない)、東海道線新居町〈アライマチ〉駅に向かった。第一列車が、新居町駅に到着したのは、午前一〇時ごろだったという。
 捕虜たちは、新居町駅で列車を降り、新居町駅北側の浜名湖岸に接岸していたアメリカ海軍の上陸用舟艇に三隻に分乗、舞坂海岸に投錨していたアメリカの軍艦に向かった。上陸用舟艇は、この日の朝、舞坂海岸の艦隊から、新居町駅東側に位置する湖口(今切〈イマギレ〉)を通って、新居町駅北側まで来ていたのであった。上陸用舟艇三隻は、都合三回、捕虜たちを軍艦まで運んだという。
 この捕虜解放の模様については、二〇一六年一二月二三日のコラム「湖口に機雷を布設してないか(シンプソン少将)」で、紹介したことがあった。また、満島捕虜収容所については、その後、ホームページ「平岡ダムの歴史を残す会」の記事「平岡ダム建設における強制連行強制労働」に、貴重な情報があることに気づいた。
 ところで私は、昨一六日、満島捕虜収容所があった場所まで行ってきた。飯田市に出かけたついでに、天龍村まで足を伸ばしたのである。前記の記事「平岡ダム建設における強制連行強制労働」によれば、満島捕虜収容所(正しくは「東京俘虜収容所第二派遣所」)があった場所は、今日の天龍村立天龍中学校の敷地の一部にあたるという。その場所は、予想に反し、平岡駅前の商店街からほど近い、かなり開けたところだった。
 満島捕虜収容所があったとされる場所を訪れたあと、平岡駅から飯田線に乗車した。記憶では、飯田線に乗るのは初めてである。一三時二五分発、上り豊橋行き、四両編成の電車である。この駅で降りた人はゼロ、乗車したのは、私含め二名だった。車内で、浜松までの乗車券を購入、二二七〇円。豊橋駅着が一六時一六分、一六時二四分発の東海道線の上り掛川行きに乗り換えた。途中、新居町駅には、一六時四一分に着いた。本当は、この新居町駅で降りたかったのだが、時間の関係で断念。電車内から、駅の北側に注目するにとどめた。駅の北側、数十メートルのところに、たしかに浜名湖の湖岸が見えた。

*このブログの人気記事 2018・3・17

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三上卓・元海軍中尉から田中光顕伯爵への手紙

2018-03-16 03:29:27 | コラムと名言

◎三上卓・元海軍中尉から田中光顕伯爵への手紙

 富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(弘文社、一九三三)の紹介に戻る。同書は、全七部からなるが、最後の第七部は、「事件関係者の書簡集」である。そこに収められている書簡の主およびその宛先を見てみよう(同書の目次による)。

七、事件関係者の書簡集   …………五四六頁から五六四頁…………

〔橘耕三郎〕―父より我が子へ―夫より我が妻へ―風見代議士へ―後藤信彦へ―
〔井上日召〕―田中光顕伯へ―高村忠義氏へ―小幡梅子氏へ―武田耕一氏へ―
〔三上卓〕―田中光顕伯へ―
〔大川周明〕―今牧嘉雄博士へ―
〔本間憲一郎〕―田中光顕翁へ―柴博氏へ―
〔後藤圀彦〕―大槻敬三氏へ―
〔池松武雄〕―大槻敬三氏へ―
〔林正三〕―橘徳次郎氏へ―愛郷塾へ―折々の和歌―
〔小沼正〕―兄小沼新吉氏へ―武田耕一氏へ―
〔杉浦孝〕―風見代議士へ―
〔横須賀喜久雄〕―風見代議士へ―
〔川崎長光〕―兄川崎長輝氏へ―
〔塙五百枝〕―愛郷塾へ―
〔大貫明幹〕―愛郷塾少年部―
〔黒沢金吉〕―父黒沢菊太郎氏へ―
〔菱沼五郎〕―父菱沼徳松氏へ―
〔黒沢大二〕―小沼新吉氏へ―
〔矢吹正吾〕―愛郷塾へ―
〔照沼操〕―大槻敬三氏へ―

 一見して、田中光顕伯宛、風見章代議士宛の書簡が多いことに気づく。このふたりの人物は、血盟団事件関係者、ないし五・一五事件関係者にとって、それだけ、重きを置かれた人物だったということか。
 本日は、これら書簡のうち、三上卓元海軍中尉から田中光顕伯へ宛てた書簡を紹介してみよう。ちなみに、三上卓〈ミカミ・タク〉は、五・一五事件でで中心的役割をはたした海軍将校で、犬養毅首相を射殺したことで知られる。

  ◎田 中 光 顕 翁 へ   元海軍中尉  三 上  卓
(前略)過日は一同に対し「水戸幕末風雲録」の御恵投を賜り肝謝このことに奉存候〈ゾンジタテマツリソウロウ〉。獄中朝夕静かに心読養志仕居候〈ツカマツリオリソウロウ〉邦家将に非常の時閣下の御健在を祈上候〈イノリアゲソウロウ〉
    水戸幕末の志士を思ふ
 恩讐を超えて大義の道を行く
    みくに思ひの益らを〈マスラオ〉の伴〈トモ〉
  ――昭和八年十月二日――

 書簡中、「水戸幕末風雲録」とあるのは、田中光顕監修・沢本孟虎編の『水戸幕末風雲録』(常陽明治記念会、一九三三)のことである。

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