◎漢字のために時間と精力とが費されている
昨日は、松坂忠則の『国字問題の本質』(弘文堂、一九四二)から、その冒頭部分を紹介してみた。あとで思い出したが、以前、このブログで、松坂忠則の論文「国字問題と国文学」を紹介したことがあった(「国字問題の解決が急務となった1941年」2015・11・16)。併せて、参照いただければ幸いである。
さて、本日は、同じく『国字問題の本質』から、第一章「文字から見た現代文化」の第二節「漢字と国民教育」を紹介してみたい。
第二節 漢字と国民教育
八年制の国民学校が実現したことによって、どれだけの読書力があたえられるか。第一節において、私はもっぱらこれに答えた。さらに私は、現在のわが国の文字が、国民教育に対していかなる作用をあたえるかを見てゆきたい。
単に年限の上だけから言えば国民学校は、要するに今までの小学校の高等二年までを義務制度にしたものである。しかしながら、国民学校が、その名も「国民学校」と改めてまみえたのは、決して今までの高等二年までを義務制度にしたものではないからである。これによって、すべての国民を、今日の日本が要求する国民として、はずかしからぬ者に、作りあげようとしているのである。それには今までの高等二年生では不十分な、三つの大きなものが要求されている。第一は国民精神、第二は体力、第三は科学である。
それでは、これらの新らしい要求に応じて、それに要する時間と精力とを生み出すために、今までの科目の中から、何か、はぶくことのできるモノがあるであろうか。また、もし、それが無いならば、今までよりもさらに多くの時間と精力とのフタンをになわせるとゆうのであるか。
西洋諸国の小学校は、国によって一様ではないけれども、大体、小学校はベントウを持って行かない所になっている。午前中で切りあげて、ヒルの食事はうちでするのである。午後は、わが家にあって、自由にあそんだり、母のシツケを受けたり、ヒットラー ユーゲントのたぐいによって、精神と体とをきたえたりして、その間におのずから社会全体のことがらを理解したりするのである。こうして、自然の間に多くの作法と、社会人としての用意とを学びとりつつ、元気に、のびのびとそだってゆくのである。ただに午後の時間だけでなく、西洋の小学校は、どこでも休みの日の多いことが、日本といちじるしく異る点とされているが、これらはすべて、国民キョウイクは学校だけが受持つべきものではないことを、制度の上にハッキリしているのである。
あえて小学校に限らず、日本の学校が、西洋の学校にくらべて、ひどく気づまりであるのは、これはシナの国の学問のやりかたを、自然のうちにまねているためである。シナの学問法がガツガツしているのは、漢字のためである。
私はシナ事変にめされて、二年半かの地にいっていた間に、かの地の多くの学校を見ることができた。シナの小学校とゆうものは、はじめから終りまで、大ゴエをはりあげて、本を読むことをくり返しているものであった。四年生がたいてい最上級であったが、その最上級生になっても、二号活字ほどの大きな文字を、ごくわずか、ならべた本を、一日がかりで 一、二ページ進めている有様である。先生は、一字一字をコクバンに書いて、そのフデマワシを教え、その発音を教え、同じイミの他の字、あるいは同じ発音の他の字を書いてみせるのである。コドモらは、あるいは全員が口をそろえて、あるいは一人一人に、それをオウム返しにしてノドをからし、教室のガラスをふるわせているのである。
シナの学校がこのようであるのは、かれらの文字が、それほどにおぼえにくいものであるためである。アメリカでもドイツでも、もしシナのように漢字だけで国語を表わすことになったら、やはりシナと同じ小学校のやりかたをとらざるを得ないであろう。日本の学校はシナほどではない。しかし西洋の学校にくらべると、すこぶるシナに近い。それは、シナと同じ文字、漢字を教えているからである。わが国の国民教育において、漢字のために、いかに多くの時間と精力とが費されているかを反省しなければならない。このおびただしい時間と精力とを取りのぞくことができるならば、国民精神も、体育も、科学も、他のどこの国にもおとらぬだけに力をそそぐことができるであろう。【以下、次回】