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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

坂本は「頭をやられたから駄目だ」と言った(中岡慎太郎)

2018-03-26 04:41:56 | コラムと名言

◎坂本は「頭をやられたから駄目だ」と言った(中岡慎太郎)

 月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 高杉の蛮声のことは既に書いたが、これと反対に坂本竜馬は美声だったという。田中〔光顕〕の話によると竜馬が三条大橋の上に立って詩吟をやると、加茂川畔の旗亭につどう幾百の艷妓が耳を傾けてその美声に陶酔したということである。田中の馬関時代、本陣の宿舎に土州の坂本がいると聞いて訪ねたところ、熊の皮を敷いて脇息〈キョウソク〉に倚り床の間に千両箱を二つ積み重ねて天下の形勢を説いておったには、田中も一寸吃驚したそうだ。坂本が京都河原町の醤油屋楼上で殺された時(慶応三年〔一八六七〕十一月十五日夜)田中は白川の陸援隊におったが、同志の菊屋峰吉の注進によって第一番に馳け付けた。坂本はこの時既に頭を斬られて絶命していたが、中岡慎太郎は重傷にも屈せず、前後の模様を述べて、
「突然二人の男が二階へ馳け上って来て斬り掛ったので、僕は予て〈カネテ〉君(田中光顕のこと)から貰った短刀で受けたが、何分手許に刀が無かったので不覚を取った。坂本の方は斬り込んで来た太刀先を刀の鞘の侭受けておったが、頭をやられた。刺客が去った後で坂本は、頭をやられたから駄目だと言った。俺もこれくらいやられてはとても助かるまいと話し合った」と告げた。田中は中岡を激励して
「大丈夫だ、しっかりして下さい。長州の井上聞多〈ブンタ〉は、あれほどやられて生き返ったではありませんか」と慰めたが、翌日八ツ前後に斃れた。坂本の身辺が危険であるということは、新選組の近藤勇と意見を異にして脱退した伊藤甲子太郎〈カシタロウ〉が屡々忠告し、土州屋敷に入れと勧告したが、坂本は千葉周作門の塾頭を勤めた縁故から、当時京都桶町〈オケマチ〉に道場を開いて桶町千葉と言われた千葉周作の弟定吉〈サダキチ〉の娘さな子という(竜子ともいう)美貌で剣道に達した愛人があって、窮屈な土州屋敷に入るのを嫌がっておった為に、この兇変に遭遇した。坂本と中岡の下手人は近藤勇と土方歳三〈ヒジカタ・トシゾウ〉だとも言い、あるいは京都所司代与力今井信郎〈ノブオ〉だとも伝えられ、田中も遂にそれを確かめることができなかったと話しておったが、本県相良町〈サガラチョウ〉〔静岡県榛原郡相良町〕に隠棲した今井信郎が、後年自から人に語って坂本、中岡の刺客であったと告白したという。今井の子健彦〈タケヒコ〉は、関東方から出て代議士〔衆議院議員〕に当選し、私〔村岡〕も交際したことがあるが、最近その消息を聞かないから物故したであろう。
 高杉と共に松蔭門下の高足〈コウソク〉と唄われた久坂玄瑞は、元治〈ゲンジ〉元年〔一八六四〕七月十九日、京都堺町御門の戦い〔禁門の変〕に鷹司〔輔煕〕関白邸で重傷を負って切腹(享年二十六才)したが、久坂に対する田中光顕の談話は、
「あれは医者の伜〈セガレ〉で、背も高くはなく、しかも痩せていて顔色もよくはなかったが、上品で沈着な男だった。学問もあり、識見も高く友人間には信望が厚かった。蛤門の戦いが終ってから、その遺骸をたずねたが判らない。越前の桑山重蔵という男が、それらしい八人の首級を京都寺町頭鞍馬口〈テラマチガシラ・クラマグチ〉の上禅寺〔ママ〕の境内に、樽詰めにして葬ったという話を聞いて早速調べて見たところ、久坂と同時に戦死したものの首が七ツあって久坂だけがない。寺のものに聞合せると、その首を埋めると間もなく一人の若い女が来て、一つだけ持ち帰ったと判った。そんな訳で久坂の首はとうとうどこかへ紛失してしまったが、多分彼の愛人が窃かに〈ヒソカニ〉持ち去ったのであろう。明治になってから、京都の芸妓に久坂の産ませた男の児があるという噂が立ったので、友人達が集まってその子供の首実験をした結果、確かに久坂に似ているというので、養育費を出し合って育てたが、親爺程の英物ではなかったと見えて、どうにかなってしまった」と興味ある話である。【以下、次回】

 若干、注釈する。文中、「長州の井上聞多」とあるのは、井上薫のことである。井上は、文久三年(一八六三)九月、俗論党に襲われ、瀕死の重傷を負ったことがある。
 また、「今井の子健彦」とあるのは、衆議院議員、東京毎日新聞社社長などを務めた今井健彦(一八八三~一九六六)のことである。「京都寺町頭鞍馬口の上禅寺」とあるのは、京都市北区の浄土宗上善寺のことであろう。

*このブログの人気記事 2018・3・26

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高杉東行は物に驚くということがなかった(田中光顕)

2018-03-25 04:43:46 | コラムと名言

◎高杉東行は物に驚くということがなかった(田中光顕)

 昨日の続きである。月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 私は田中光顕と交際して得るところが三ツあった。その一ツは維新前後の大人物の生のままの資料を聴取したこと、その二は彼の人格から学び取った修養、その三は雲上生活宮中秘話である。維新前後の人物は、あの大変革に処して活動しただけに、勤王と佐幕とを問わず、名だたるほどの人物はいずれも非凡の器量を持っていた。田中が最も崇拝した高杉東行〔晋作〕などについても、いろいろと面白い話を聴いた。高杉は吉田松蔭〔ママ〕門下においては、久坂玄瑞と共にその双壁に数えられたが、田中は一度京都の料亭で逢って、次に馬関〔下関〕で会った。京都で逢った初対面の時には、坊主頭だったので、
「どうしたのです」と聞いたら、
「梅毒で毛が抜けたから剃ってしまった」と呵々大笑しておったそうだ。この坊主頭の高杉が、首に頭陀袋〈ズダブクロ〉を掛け、若い芸者に取囲まれて蛮声を張りあげ、
「坊主頭を叩いて見れば、南京かぼちやの音がする」と唄い興ずる酔態は、土州から初めて上洛した田舎武士の田中には、あれが有名な長州の高杉かと驚いたそうだ。
 二度目に馬関で逢ったのは、京都から薩長連盟の斡旋に下った時で、初めて高杉と胸襟を開いて語ったが、忽ちにしてその人物識見に推服し、是非共門下に加えて欲しいと懇望したところ、高杉は言下にこれを拒絶して、
「私は人の師となる器ではない。同志として、また友人として交際しよう」と答えた。仕方がないからその侭交際を続けていると、ある時高杉が田中の佩刀〈ハイトウ〉を見て、それが安定〈ヤスサダ〉在銘の名刀(十津川にて入手せるもの)であったところから、
「これはよい刀だ。代りをやるから私に譲ってくれ」と言った。田中は好機到来とばかり、
「譲れというなら差上げてもよいが、その代り私を入門させてくれるか」と反問した。暫らくジッと田中の顔を眺めていた高杉は、その熱情に溢るる願望を看取してか
「よかろう、私は君の師となる器量ではないが、それ程に望むならば御世話いたそう」と快諾した。折角友人として対等に交際しようというものを、無理に弟子になりたいという田中も面白いが、豪放磊落の高杉にもまたこうした奥床しい謙譲があった。門下に入った田中の高杉に対する第一問は、
「この変革の時世に処する途〈ミチ〉を教えて頂きたい」と質問した。これに対して高杉は、
「君、両三年は軽挙盲動を慎んで学問を専一にされたがよい。そのうちには英雄の死所〈シニドコロ〉があるであろう。英雄というものは、変なき時は、乞食となって隠れておればよい。その一朝〈イッチョウ〉天下に変ある時は竜の如く行動せねばならぬ」と教えた。高杉は豪毅濶達、胆斗〈タント〉の如き人物で、物に驚くということがなかった。 田中が人間はどうしたら大胆になれるかと聞いたら、
「数々の艱難〈カンナン〉に逢うがよい」と即答したそうだ。ある時田中が高杉の書をもとめたら、彼は折柄〈オリカラ〉王陽明の詩集を読んでいたが、
「どうも王陽明は豪かった。王陽明は亭午〔まひる〕に到って暁鐘を撞いたとあるが、私などは夕陽に及んで未だ暁鐘が撞けない」と独言をいいながら、
「四十余年唯夢中 而今醒眼始朦朧 不知日已過亭午 起向高楼撞暁鐘 田中君嘱録 王守仁詩 東狂生」
と書いてくれた。この書は私も一見したが、田能村竹田〈タノムラ・チクダン〉風の筆意を執った気品の高い傑作であった。
(高杉は慶応三年〔一八六七〕四月、下関において病歿、享年二十九才)【以下、次回】

*このブログの人気記事 2018・3・25

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午前中という時刻はない(田中光顕)

2018-03-24 06:33:43 | コラムと名言

◎午前中という時刻はない(田中光顕)

 本日は、政教社(静岡市深草)から刊行されていた月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介してみたい。
 山雨楼主人とは、ジャーナリストにして歴史研究家であった村本喜代作〈ムラモト・キヨサク〉の筆名である。ここで、「宝珠荘の偉人」とは、明治・大正・昭和の政治家で、静岡県蒲原町〈蒲原町〉に居を構えていた田中光顕〈ミツアキ〉を指す。

 静岡県近代人物考(11) 山 雨 楼 主 人
政治家の巻(6)
(山雨楼主人著「交友七十年」より)

 宝珠荘の偉人
 私と田中光顕とは、静岡民友新聞時代、その紙上に連載中の「書画道」と題する私の随筆を、毎日愛読しておった田中が、熊沢一衛〈イチエ〉(静岡電鉄KK専務)の秘書であった広瀬倹三(広瀬修造の実兄)を通じて一度逢いたいという伝言があったので、大正十四年〔一九二五〕五月十八日、広瀬を先導として蒲原の宝寿荘〈ホウジュソウ〉に彼を訪問したのが、私と田中との初対面である。広瀬は熊沢の芝川時代からの股肱〈ココウ〉であったが、酒仙という言葉がその侭〈ママ〉当はまる〈アテハマル〉男で、酔っ払って汽車に乗るとすぐ眠る癖があり、乗越しの常習者であった為、東海道筋の駅長で広瀬を知らぬものはない程の有名人になった。それでも熊沢は彼を重用して、枢要機密の仕事はすべて広瀬に任せていた。一体どうして熊沢があの呑ン兵衛〈ノンベエ〉を信用するのかと不思議に思う人が多かったが、ある時熊沢は、広瀬に関する秘話を紹介して人々のこの疑問を解いた。
「広瀬は安城〈アンジョウ〉の駅夫から辛棒して、遂には浜松駅の小荷物主任にまで昇進したが、是非民間の実業会社に入りたいというので、つて〔伝〕を求め四日市製紙の重役の紹介で芝川工場に赴任した。鉄道の同僚は広瀬の前途を祝福して盛大な送別会を開いてくれた。広瀬が芝川に来て会社の人々に赴任の挨拶をしたが、どういう手違いかその任務がきまっておらず、机も椅子も仕度してないので、仕方なし小使部屋に入って休息していると、そのうちに、『小使、小使』と呼ぶものがある。誰れかほかに小使がいるのかと思ったが、誰れも返事をせぬのに、又『小使、小使』と一層大きな声で呼び立てたので、放っても置けぬと思って広瀬が顔を出すと、『オイ、小使、煙草を買って来い』と命ぜられた。そこで広瀬が、ハハア俺は小使に採用されたのだナ、道理で机も椅子もない筈だと感付いて、わざわざ新調して来た背広を脱ぎ拾て、汚い絆纏〈ハンテン〉を着てその日から本物の小使に成り済した。三ケ月ばかり経った時、本社から重役が来て初めてそれが間違いだったと判り、俄に〈ニワカニ〉社員の辞令を出したが、それまで文句一つ言わず黙って小使をやっていた広瀬という男、凡人じゃアない」
 此熊沢の話は、同時に熊沢が広瀬を重用した動機を説明したものに違いない。広瀬は私を田中に紹介して後、数年間熊沢の秘書として働いていたが、昭和七年〔一九三二〕一月二十一日、五十七才で病没した。
 田中光顕のことは私の旧著「書画道」(昭和十五年〔ママ〕六月十日刊行)中にも詳細に記述してあるし、熊沢一衛著「青山余影」〔青山書院、一九二四〕その他幾多の田中光顕伝が世上に頒布されているので、私は本書中においてはこれ等の著書に殆んど記載されていない事柄について書いてみよう。
 田中光顕は、天保十四年〔一八四三〕土佐国高岡郡佐川町〈サカワチョウ〉に生れ、父は充実、母は献子、維新前浜田辰弥といった。土州支藩深尾家の足軽格で微禄なものだったが、文久二年〔一八六二〕四月吉田東洋を高知城下の帯屋町〈オビヤマチ〉街上〈ガイジョウ〉に暗殺した志士郡須信吾を叔父に持ち、若冠にして既に土州勤王党の血盟者であった。十一才の時、郷校名教館に入り、経史〔経書と史書〕を山本澹斎に、算学を伊藤徳裕に、剣道を古沢義正に、天文推歩術を黒岩文吉に学び、十九才にして土州勤王党の巨頭武市瑞山〈タケチ・ズイザン〉の門に入り、武芸を麻田勘七に学んだ。そして二十一才の時上洛、二十二才脱藩して長州に走り、それより国事に奔走した。私〔村本〕の深く交った人で、高杉東行〔晋作〕、久坂玄瑞〈クサカ・ゼンズイ〉、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允〈タカヨシ〉、三条〔実美〕、岩倉〔具視〕の諸卿、さては近藤勇〈イサミ〉まで知っていたのはこの田中一人であって、大正時代においては、独り国家の元勲たりしのみならず、別の意味においても真に国宝的人物であって、偶然とはいえ筆硯〈ヒッケン〉を楽しむ私がこの人と機縁を結んだことは、不思議な運命でもある。
 田中は、明治四年〔一九七一〕、岩倉大使一行と外遊し、帰朝後陸軍会計監督長、元老院議官、戸籍頭、帝室会計審査局長、恩給局長、会計検査院長、警視総監、学習院長等の官職に就き、明治二十八年〔一八九五〕宮内大臣となり、雲上生活十一年半、明治大帝崩御後は僅かに臨時帝室編修局総裁の官職についてただけで、前半は岩淵の古渓荘に、後半は蒲原の宝珠荘に悠々自適の晩年を送り、九十七才の高齢をもって肺炎に殪れた〈タオレタ〉。
 田中は一般世間では、宮内省官僚の権化〈ゴンゲ〉の如く噂したが、実際には全く正反対の人物であった。もっとも訪問時間のことなどは、流石に宮内省流に正確なものであって、私などが電話をかけて訪問の打合せをする時、「明日午前中に伺います」というと、「午前中では困る。午前何時何分の列車で蒲原駅に到着するか」と反問する。最初は一寸面喰らったが、約束の列車で蒲原駅に到着すると、チャンと駅頭に定紋〈ジョウモン〉付の人力車が出迎えていて「どうぞ」と乗車させ、俥〈クルマ〉が宝珠荘の入口の坂にかかると、 車夫がリンリンとベルを鳴らす。程なく玄関にかかると、そこには田中自身が直立不動の姿で出迎え、「サアどうぞ」と自ら先導して応接室に案内する。成程これでは午前中などという漠とした話では迷惑するであろうと思った。田中はその書簡には、仮令〈タトイ〉簡単な端書でも必ず年月日を明記する。「よく月日だけ書く人が多いが、その時には判っても、後世になると何年の何月何日だか判らなくなる」と話した。時間励行のことについても、「よく午前中に訪問するといって来る人があるが、午前中という時刻はない」と言う。私などもこの組でいささか赤面した。従って辞去する時刻も大体予告して置かぬと、食事の用意、俥の準備などがあるので、黙っていると会談中に必ず問い質される。その代り来客と会談中に中座して、他の客と応接するなどという失礼なことはせぬ。ある時私が訪問会談中に、女中が名刺を持って来て取次いだのは、東京の某顕官の秘書であった。どうするかと思って黙って見ていると、田中は無造作に女中に命じて、「只今来客中でお目に掛れぬ」と断わった。名剌の主は何か重要な急用件があったと見えて、何時頃なら御都合がよろしいか伺って欲しいと女中に依頼して尋ねて来た。
「お急ぎの御用のようですから、僕にはお構いなく……」と私が気を利かせた心算で遠盧すると、田中は私と女中の双方に言い聞かせるように、
「人を訪問するには自から礼儀がある。突然訪ねて来られても御約束はできない。今日は先約の御客様があるからお目に掛れないよ」ど言った。こうしたことは宮内省流で厳格であったが、これは儀礼が正しいというだけで、その後私の訪問中、東西の名士でわざわざ訪問する人も沢山あったが、相手の人物の地位などはこの人の眼中にはなかった。田夫野人といえども、先約あるものを尊重して、その他の者は何人といえども、平然として面会を謝絶した。田中は今日の言葉でいう民主的思想の持主で、地位や名誉によって応接態度を一二にするような封建的なところは絶対になかった。【以下、次回】

 最初に、「交友七十年」とあるのは、山雨楼主人(村本喜代作)の著書『交友七十年』(山雨楼叢書刊行会、一九六二)のことである。
 また、文中に、旧著「書画道」とあるのは、同じく山雨楼主人(村本喜代作)の著書『書画道』(書画道刊行会、一九二六)のことである(「昭和十五年」とあるのは、「大正十五年」の誤り)。

*このブログの人気記事 2018・3・24

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30

2018-03-23 17:15:27 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30

 本日は、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30を紹介する。順位は、二〇一八年三月二三日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
7位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
8位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
9位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
10位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)

11位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
12位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
13位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
14位 18年1月7日 ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎
15位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
16位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
17位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
18位 18年2月14日 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒントに)
19位 18年3月15日 二・二六事件「蹶起趣意書」(憲政記念館企画展示より)
20位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条

21位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
22位 17年8月16日 西神田「日本書房」と四天王寺の扇面写経
23位 18年1月24日 明確な目標なき新体制論議は国民を困惑させる
24位 17年3月11日 教育者は最も陰湿なやりかたで人を殺す
25位 17年2月18日 張り切った心持は激しい憤激に一変した
26位 17年1月4日  東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる
27位 17年4月29日 明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」
28位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ
29位 18年3月19日 田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同
30位 17年8月20日 『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む

次 点 18年3月13日 口は災いのもと、または、安倍首相と森友問題

*このブログの人気記事 2018・3・23

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もし一木喜徳郎に会ったら瞬時に叩き斬る(田中光顕)

2018-03-21 02:07:03 | コラムと名言

◎もし一木喜徳郎に会ったら瞬時に叩き斬る(田中光顕)

 昨日の続きである。田中光顕は、一九二五年(大正一四)前後に、高井徳次郎と井上日召の訪問を受けた際に、「ワシは今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる」と豪語したという(井上日召『一人一殺』日本週報社、一九五三)。
 昨日のコラムで私は、田中光顕は、このとき、具体的に、その「三人や五人」の名前を挙げたのではないか、と推測した。本日は、そう推測する理由について述べる。
 田中光顕は、井上日召らに対してのみならず、他の訪問客に対しても、同様の発言をおこなっていた可能性がある。先日、たまたま、四王天延孝〈シオウデン・ノブタカ〉著『四王天延孝回顧録』(みすず書房、一九六四)を読んでいたところ、次のような箇所に目が止まった。

 田中光顕翁訪問
 三月十日には静岡県清水市長大石〔恵直〕氏及対米貿易の同地有力者「鈴与」主人(六代目・鈴木与平)と相携えて蒲原に田中光顕翁(元伯爵)を訪れた。東京で立憲養正会総裁田中沢二〈タクジ〉君の選挙応援演説を予が行った際来聴せられたことがあり、面職はあり、思想において予を理解して呉れており、また航空方面においても三保松原方面で苦闘中の民間飛行士を後援するなど、九十二歳の老齢でも決して化石しかかった様な老翁ではなく、幾人かのうら若い女性の奉仕者を持ち精力猶〈ナオ〉旺盛であつた。予が時勢を説き、吾々未熟者の力では頽廃せんとする現状を恢復するのに困難で障碍は余りにも有力であるから、少し力添えを頼むと述べると、少しく不機嫌で吾輩など明治維新当時二十歳前後で身命を抛げ〈ナゲ〉出してやるべきことはやり自ら一切の障碍を排除したのである。君等〈キミラ〉の如きまだ春秋に富むものが吾々老骨の力添えを頼むが如きはその意を得ぬとやられた。
 当時飛ぶ鳥を落す様な元老の大御所西園寺〔公望〕公が程遠からぬ興津〈オキツ〉にいるから時折りは会談されるか伺〈ウカガイ〉を立てると、イヤあの男はワシより若い言わば後輩だから、あちらから先に訪ねて来べきと思うが一向に足を運んで来ないので遇うことは無いと答えられた。また一木[喜徳郎]枢相のことに話が転じた時には彼は宮中の重大事でワシには合す顔は無い筈だ、若し遇ったら〝抜く手は見せん〟と腰の一刀の鞘を払う有様を突際に見せて呉れ、七十年前若い国士として活躍された面影をサッと吾々の目前に現わされた。果してその元気は翁を猶五年も生き長らえさせ九十七歳でこの世を辞されたのである。

「三月十日」とあるのは、一九三三年(昭和八)の同日のことである。[喜徳郎]は、編集者による傍注、〔 〕内は、引用者による注である。
 さて、この一文で重要なのは、もし、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉に会ったら、瞬時に(抜く手も見せずに)叩き斬る、と豪語していることである。田中光顕は、九二歳の老齢にして、なおテロリストとしての心情を失っていないのである。
 ということであれば、これより先、井上日召らの訪問を受けた際、「ワシは今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる」と豪語したことはうなづけるし、なおかつ、「三人や五人」の政敵の名前を挙げたことも、十分にありうると思うのである。
 なお、一九三三年の会見において、田中は、一木喜徳郎について、「彼は宮中の重大事でワシには合す顔は無い筈だ」と述べていた。今、この田中の言葉の意味するところについて、コメントできるだけの知識がないことを遺憾とする。
 
*都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

*このブログの人気記事 2018・3・21(依然として日本会議が強い)

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