◎川島武宜『ある法学者の軌跡』を読む
昨年、読んで印象に残った本の一冊に、川島武宜著『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)がある。
著者の川島武宜(かわしま・たけよし、1909~1992)は、著名な法社会学者である。私は若いころに、彼の代表作『日本人の法意識』(岩波新書、1967)を読み、たいへん刺激を受けた記憶がある。
『ある法学者の軌跡』は、川島武宜の口述を、有斐閣編集部の新川正美氏が筆録したもので、平易で、かつ興味深い読み物になっている。
本日以降、そこにある回顧談を、いくつか引いてみたい。まず紹介したいのは、第Ⅳ部「戦時中のこと」の第八章「与瀬での生活の思い出」である。
八 与瀬での生活の思い出
⑴ 与瀬に疎開をする
昭和二〇年の春、東京は、一地区づつその周囲に燃焼物(油?)をまき、次に火を放つ爆弾をおとし、その中にいる市民を逃げられないようにして全部焼き殺す、という「皆殺し」(今日で言うジェノサイド)じゅうたん爆撃で、次々と焼野原になってゆきました。それまで私一人で知りあいの家に下宿していましたが、そういう情勢では、食糧入手もむずかしくなり、その知りあいの方にも大きな負担をかけることになりましたので、東京から疎開することを決意し、そこに大塚(久雄)さんをたよりにして与瀬〈ヨセ〉に行きました。与瀬は今の相模湖町の一部で、そこでは当時、深い峡谷にダムを建設して今の相模湖を作る工事が始まったばかりでした。その峡谷の北側の急斜面にへばりつくように家が点点とあり、昔ながらの一本の街道が走っている山村の一つが与瀬なのでした。大塚さんと奥様の並々ならぬ御親切なはからいで、与瀬の梶原さんというお医者さまの家の一間を借り、汽車で毎日東京に通うことになりました。
与瀬には、すでに大塚さんのほかに飯塚(浩二)さんと、東大の小児科の瀬川功〈コウ〉先生が、それぞれ御家族と共に疎開してきておられました。たまたま、これらの方々と私とは、東大に属していたというだけではなく、都会育ちであったという点でも共通していて、風俗習慣が甚しく異なる与瀬の山村で一種の「異邦人」として心細く暮していましたので、何となくしばしば顔を合わせて大へん親しくつきあうようになりました。大塚さんが誠意をもってつきあっても、村の人は「わけの分らぬ人」と言って非難する。ことに瀬川先生は有名な小児科のお医者様であるのに、村の人々のあいだでは「瀬川先生は診断を誤るやぶ医者だ」と非難されていたのです。というのは、先生は当時「新薬」だったスルフォン剤を持っておられ、疫痢【えきり】にかかった村の子供にスルフォン剤を投与されたので、すぐに治ってしまう。ところが、当時は、その村では疫痢にかかったら死ぬのがあたり前で、すぐに治ってしまうことはなかったのですから、そんなに簡単に治ってしまう病人を疫痢だと診断した瀬川先生は「診断誤ったやぶ医者だ」と思われたのです。先生はそのような村人のうわさ話を苦笑しながら、多くの子供の生命を救っておられたのでした。私は山村の風俗習慣を或る程度は知っていたのですが、それは主として長野県の山村――特に、知的水準の高い伊那谷の山村――に関するもので、与瀬はこれとはかなりちがっていましたし、特に瀬川先生についての村人の評価は、私にとっては全くおどろく外はなく、日本における文化の地域的――都市と農村の間の――落差について強く印象づけられると共に、日本社会のこのような一面を大へん悲しく思いました。〈186~187ページ〉【以下、次回】
今日、「与瀬 梶原」でインターネット検索すると、相模原市緑区与瀬の「梶原医院」がヒットする。また、「瀬川功 小児科」でインターネット検索すると、東京都千代田区神田駿河台の「瀬川記念小児神経学クリニック」がヒットする。
昨年、読んで印象に残った本の一冊に、川島武宜著『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)がある。
著者の川島武宜(かわしま・たけよし、1909~1992)は、著名な法社会学者である。私は若いころに、彼の代表作『日本人の法意識』(岩波新書、1967)を読み、たいへん刺激を受けた記憶がある。
『ある法学者の軌跡』は、川島武宜の口述を、有斐閣編集部の新川正美氏が筆録したもので、平易で、かつ興味深い読み物になっている。
本日以降、そこにある回顧談を、いくつか引いてみたい。まず紹介したいのは、第Ⅳ部「戦時中のこと」の第八章「与瀬での生活の思い出」である。
八 与瀬での生活の思い出
⑴ 与瀬に疎開をする
昭和二〇年の春、東京は、一地区づつその周囲に燃焼物(油?)をまき、次に火を放つ爆弾をおとし、その中にいる市民を逃げられないようにして全部焼き殺す、という「皆殺し」(今日で言うジェノサイド)じゅうたん爆撃で、次々と焼野原になってゆきました。それまで私一人で知りあいの家に下宿していましたが、そういう情勢では、食糧入手もむずかしくなり、その知りあいの方にも大きな負担をかけることになりましたので、東京から疎開することを決意し、そこに大塚(久雄)さんをたよりにして与瀬〈ヨセ〉に行きました。与瀬は今の相模湖町の一部で、そこでは当時、深い峡谷にダムを建設して今の相模湖を作る工事が始まったばかりでした。その峡谷の北側の急斜面にへばりつくように家が点点とあり、昔ながらの一本の街道が走っている山村の一つが与瀬なのでした。大塚さんと奥様の並々ならぬ御親切なはからいで、与瀬の梶原さんというお医者さまの家の一間を借り、汽車で毎日東京に通うことになりました。
与瀬には、すでに大塚さんのほかに飯塚(浩二)さんと、東大の小児科の瀬川功〈コウ〉先生が、それぞれ御家族と共に疎開してきておられました。たまたま、これらの方々と私とは、東大に属していたというだけではなく、都会育ちであったという点でも共通していて、風俗習慣が甚しく異なる与瀬の山村で一種の「異邦人」として心細く暮していましたので、何となくしばしば顔を合わせて大へん親しくつきあうようになりました。大塚さんが誠意をもってつきあっても、村の人は「わけの分らぬ人」と言って非難する。ことに瀬川先生は有名な小児科のお医者様であるのに、村の人々のあいだでは「瀬川先生は診断を誤るやぶ医者だ」と非難されていたのです。というのは、先生は当時「新薬」だったスルフォン剤を持っておられ、疫痢【えきり】にかかった村の子供にスルフォン剤を投与されたので、すぐに治ってしまう。ところが、当時は、その村では疫痢にかかったら死ぬのがあたり前で、すぐに治ってしまうことはなかったのですから、そんなに簡単に治ってしまう病人を疫痢だと診断した瀬川先生は「診断誤ったやぶ医者だ」と思われたのです。先生はそのような村人のうわさ話を苦笑しながら、多くの子供の生命を救っておられたのでした。私は山村の風俗習慣を或る程度は知っていたのですが、それは主として長野県の山村――特に、知的水準の高い伊那谷の山村――に関するもので、与瀬はこれとはかなりちがっていましたし、特に瀬川先生についての村人の評価は、私にとっては全くおどろく外はなく、日本における文化の地域的――都市と農村の間の――落差について強く印象づけられると共に、日本社会のこのような一面を大へん悲しく思いました。〈186~187ページ〉【以下、次回】
今日、「与瀬 梶原」でインターネット検索すると、相模原市緑区与瀬の「梶原医院」がヒットする。また、「瀬川功 小児科」でインターネット検索すると、東京都千代田区神田駿河台の「瀬川記念小児神経学クリニック」がヒットする。
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