雨宮日記 1月20日(日) 大寒(だいかん)でした。「希望1号」作成
今日1月20日は「二十日正月」といって、関西では、年肴(としざかな)の鰤(ぶり)の頭や骨を入れた雑煮を食べる「骨正月」です。1月15日の「小正月(こしょうがつ)」に作った団子(だんご)を小豆がゆに入れて食べる「団子正月」の風習のあるところもあります。(以上は、加藤文三『民謡歳時記 上』青木書店、p51「4 寒天唄」による)。
年によって「大寒(だいかん)」の日は変動するのですが、今年は、今日1月20日でした。
全国的には「寒稽古」のおこなわれる日のようです。
1年でいちばん寒い日に、ぼくは、昨日、原稿を打ち込んだ「希望」を編集しました。B5で六ページ、になります。
希望はあるのか?ないのか?
いえ、希望はあったり、なかったりするものではなくて、創るものだと思います。
そもそも、絶望がなければ希望も必要ありません。
それはギリシア神話の「パンドラ」の寓話の通りです。
中国の文学者、魯迅さんは「希望の虚妄なるは、絶望の虚妄なると相等しい」といっていると記憶しています。記憶違いだったらごめんなさい。
フランスの詩人、ルイ・アラゴンさんは、レジスタンス時代の「ストラスブルグ大学の歌」で、
学ぶとは、誠実を胸に刻むこと。教えるとは希望を語ること、と歌っています。
学ぶとは、大学で「学んで、態度が大きくなること」と勘違いしている人もいますね。生物学では、学習するということは、経験から学んで、自分の行動様式を変えることを言います。
「学習塾」のように「誰かがただしいと決めた知識を暗記すること」では、ありません。