雨宮家の歴史 34 雨宮智彦の父の自伝史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ-33 枝条架」
工場の建設が進むにつれて、建築・電気・機械などの技術者が赴任してきた。彼等単身赴任者を集めて、私は独身寮として会社に歩いて通える光井川に近い「白百合寮(104頁・地図・B)」へ移った。その名も床しい「白百合寮」は、工廠時代の動員女学生たちの寮で、その舎監の家であった。三部屋あり、七,八名ぐらい入っていたと思うが、名実が伴わず、実態は野郎ばかりで、夜間廊下から庭に向って放尿する豪の者もいた。
風呂は五右衛門風呂であった。その名の由来はよく知られているが(村山知義著『忍びの者 2』に詳しい)、五右衛門は元来伊賀の忍者であった。朝鮮にもあったが、長州風呂といわれる程西日本に多く、燃料が何でも使えるから、田舎に多かった。そういえば、疎開先の高畑も五右衛門風呂だった。弥次さん喜多さんではないが、蓋を取って入っては火傷をする。
寮の方には、光家政学院(花嫁学校)の女生徒が、五、六名生活していた。広島出身だと言っていたが、夜、風呂を貰いに来ていた。
食事は通いのおばさんが作っていた。主食は工場の方にも特配があり、不足することはなかった。ある時、大豆が配給になり、皆で豆腐を作ったはいいが、しばらく豆腐ばかり食っていたのには閉口した。
会社の正門前は一応官庁街で、市役所・銀行・照射などが集まっていた。郵便局・警察・図書館などは本道路の北側にあった。私たちが工場に通うために通る旧道は、空襲が工廠のみだったので、昔ながらの家並みを残していた。
途中に共産党の宮本顕治の叔父の家があった。顕治の生まれた家は島田の駅前にあったが、昭和恐慌時に倒産し、顕治はこの叔父の家で育てられ、苦学して徳山中学・松山高校より東大へ出た。叔父の家は野原の家と言っていた。野原は地名である。
山口県はおかしな所で、維新の原動力だった伊藤博文・木戸孝允・山県有朋などが出るのは当然として(岸信介・佐藤栄作も光の隣の田布施町である)その反対勢力の顕治や野坂参三など左翼も盛んだったのは、防長人の反対の気質の一端だったのかも知れない。
旧道に入る角に、主人が共産党員という小さな本屋があった。当時、良く売れた「リーダーズ・ダイジェスト」や「世界」などを買うと、売れそうもないものを一緒に買わされた。抱き合わせ販売である。私の家も本屋だったが、そのようなことは覚えていない。
旧道に入る手前は広場で、古い映画館が建っていた。田舎には似つかわしくない「乙女の湖」という古いドイツ映画をやっていた。シモーヌ・シモンという女優演ずる女が、失恋して入水自殺する筋だったが、見ているうちにどうも話がチグハグになってきた。よく考えたら、二巻目と三巻目をとり違えて前後逆に上映していたのである。のんびりした田舎の映画館であった。この映画館はある晩、進駐して来た豪州兵の夜間警備中に、タバコの火で消失してしまった。中国地方は米軍ではなく、豪州兵が配置されていた。
塩の製造は鹹水を作る採鹹課と、塩を採り出す煎ごう課に別れていた。私は採鹹課に属して、気象観測をやりながら、採鹹の仕事をした。枝条架は雨の時は無論運転できないが、気象観測で湿度が上がり始めると、やがて雨が降り出すであろうと予測できる。夏は割合湿度が高く、日射によって水分を蒸発させるが、冬場は日射しよりむしろ風によって湿度が下がり、夜間でもある程度運転出来た。
枝条架のやぐらの上に上がると、天気さえ良ければ遠く九州がかすんで見え、姫島も見える。すぐ目の下には大水無瀬島、小水無瀬島が並んで浮かんでいる。この島には戦時中、対空監視所が置かれた。水無瀬の名の通り、水が無かったので、本土から水道管が通じていたが、その水道管の断(き)れ端が工場の海水汲上げポンプ室の側に突立っていた。この海岸沿いは戦時中、特攻兵器「回天」の演習場であり、徳山に海軍燃料廠があったから、連合艦隊の停泊地にもなった。
( 次章 「Ⅱ-34 結婚」に続く )