青い銀河とオレンジの花 断片 4 帰郷と出会い ① 20200819
浜松へ帰ろうと思ったとき、自分の青春時代はこれで終わりかと思った。ところが、まったくそうではなく、それからが自分にとっての本当の青春時代の始まりだった。
名古屋勤労市民生協の仕事を辞めて、浜松の実家へ帰っては来たのは1976年(昭和51年)の4月だった。
自分の荷物は主に本や家具だが、名古屋から市民生協の仕事用のトラック「ホーマー」を借りて浜松まで運び、いったん名古屋に戻り、自分の愛車、中古でたしか10万円くらいで買った小さな軽自動車「ホンダZ」で自宅に戻った。自宅には車1台しか駐車スペースがなかったので、南部にいる親戚のKさんの空き地に置かせてもらい、そのうち業者にタダで引き取ってもらった。
「ぶらぶらしてるなら、本屋の仕事手伝え」と父に言われて、当面、他の予定はなかったので、少しの小遣いをもらって、本屋の仕事を手伝い始めた。
実家は松城町の、昔の動物園入り口、今の美術館入り口の前にあった。父が『落葉松(からまつ)』に書いたように、坂道の横にある小さな三角スペースだったが、それまで借家生活だった雨宮家にとっては初めての持ち家だった。
三角地なので、父が知恵をこらして設計したのだと思うが、1階の前面の3分の2くらいが本屋の店舗で、左に車庫があった。元からの車庫ではなく、ここに新町から引っ越してから、車を新しく買った時に、家を改造してぎりぎり普通車が1台入る車庫を作ったのだ。
だから車を出し入れするのに細心の運転が必要で、しかも右側を車庫にこするくらいの感じで入れて、やっと運転手が左側からでれるという状況だった。
映画「2001年宇宙の旅」で冒頭の、「美しく青きドナウ」がバックで流れるシーン、細い宇宙船が地球上空に浮かぶ宇宙ステーションの入り口に侵入するあのシーンのようなものだ。
元は玄関だった部分を、後から車庫に改造したため、本屋の営業時間以外は、家へ出入りするのに、車の横の1人通れるだけの空間を通って出入りした。1階は本屋の部分とその奥の、父と母の居間兼食堂、居間から外へ通じる廊下、トイレ、台所、お風呂場、小さな客間から成っていた。
2階は3部屋あり、真ん中の部屋は客間にしていて、階段に近い部屋は妹が、奥の部屋は5年間いなかったボクが使わせてもらうことになった。階段を登り切った左に扉があって、物干しに出ることができた。物干しからは同じ高さくらいの坂道へ直接降りることもできる近さだった。1度も降りたことはなかったが。
昔は大家族だったし、この頃には兄も名古屋で結婚して家へ戻らないので、父と母と妹とぼくという4人家族だった。