駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

東海道は七間町(しちけんちょう)の曲がり角

2011年05月04日 11時05分04秒 | 駿府のバラード
▽京(みやこ)方面へは、七間町と直角に交わるこの角を曲がる。(右手奥方面が東海道・人宿町商店街方面)


▽街道歩きの旅人のための手作りの標識
 (本来、市で設置すべきでしょうが、ここが旧東海道と知らぬ市職員もいる現状では期待する方が無理でしょうか・・・)


▽閉店のお知らせ


駿府の町の中心は札之辻です。
(現在、静岡伊勢丹がある十字路で江戸で言へば日本橋にあたる起点箇所)
この札之辻から京へ上るには碁盤の目状の町割り
七間町通りをまっすぐ進むことになります。

4丁(約440m)進んだところにある
(駿府の町割りは1丁ごとなので、本来は4つめの角だったが
 静岡大火後に間に小路が新設されたため現在は8つめの角)

十字路が東海道の曲がり角となります。

すなわち右手へ曲がると東海道
左手へ曲がると徳川宗家ゆかりの寺院である宝台院正面というわけです。

曲がらずに真っ直ぐ行くと寺町通りとぶつかる丁字路(ていじろ)となります。
(昭和の始めに駒形通とつながり貫通した)

したがって重要な十字路なのですが
都市化が進んだ現在では
ごく普通の目立たぬ交差点となってしまっています。

この交差点で唯一の目印となるものは
上の写真のクチーナ・スギヤマといふ商店です。

杉山金物店として
戦前からあったお店のやうですが
とうとう閉店してしまうようです。

この十字路の手前に建ち並ぶ映画館のほとんどが
この秋閉館してしまうのを見越しての
閉店なのでしょうか。

旧城下の町々が衰退していくのは
静岡市の都市計画が
旧城下を中心に見据えた視点が欠如していて
近年、静岡駅を中心にしたものになってしまっているので
仕方がないことなのかもしれません。



▽旧東海道は駿府城下を何度も直角に曲がって進む。
 (江川町交差点の部分は、御幸通り開通の際五叉路になるやうに付け替へられた)

F:札之辻  S:スギヤマ 

行政区をまたぐ地名(町名)・ 「駿河区 谷田」 「清水区 谷田」 その2

2010年08月28日 22時40分41秒 | 駿府のバラード
前記事はこちらです。


▽谷田を中心にした有度地区
 この範囲では「楠」「楠新田」「丁目なしの中之郷」「丁目なしの草薙」を除いて
 谷田を含む全域が住居表示地区(所在地を土地の地番ではなく「街区符号+ハウス番号」で表示)


▽駿河区谷田の52番の街区にある静岡県立大学、
 この向かい側の街区は、一つの街区が東側(写真左手)は清水区谷田23番、西側は駿河区谷田47番となっている




谷田地区の住居表示の実施は合併以前のことなので
当然ながら駿河区谷田と清水区谷田は全く別の町として
それぞれの街区には、相互に何の関連もなく街区符号が1番から振られています。

たとえ別の自治体であったとしても
谷田全体をひとつの町として連続性のある街区符号を付けるとか
別の町であることを強調するなら
谷田一丁目、谷田二丁目(あるいは谷田南町、谷田北町とか)などとする方法も
あったのではと思ったりするのですが
そんな考えは素人の趣味的なお遊びの範疇(はんちゅう)なのでしょう。(笑)

余談ながら、この地図の範囲では
区割りされる以前、「国吉田(各丁目全域)」「中吉田」の郵便番号(上3桁)は、
現在と同じ「422(静岡南局管内)」でしたが
弥生町の郵便番号は、「420(静岡中央局管内)」でした。

弥生町は420地域でかつ全域が東海道線以北なので
当然に葵区になると思っていたのですが
どういうわけか駿河区となり同時に郵便番号も422に変更となりました。

行政区をまたぐ地名(町名)・ 「駿河区 谷田」 「清水区 谷田」

2010年08月24日 06時43分53秒 | 駿府のバラード
▽この地域に多い旧東海道沿いの植木屋さん。「安倍郡有度村」の看板が・・・



行政区をまたいで同じ地名(町名)が付けられている例は
それほど珍しくはないようです。
(自明のことですが、東京都の区は「特別区」ですので、ここでいう「行政区」とは違います。)

というのは、行政区境を設定するに当り
町(大字)の境よりも
道路や河川・鉄道などの分かりやすい施設を
境として優先する例も多いからです。

静岡市では「谷田(やだ)」が
駿河区と清水区の両行政区にまたがっています。

谷田が両区にまたがっているということは
旧静岡市と旧清水市の時代から
比較的市民にはよく知られていますが
他市の行政区を越える地名とはちょいと経緯が違うようです。


▽1889年(M22年)4月1日
 市町村制度発足に伴い
 平沢村・中吉田村・谷田村・草薙村・中之郷村・馬走村・上原村など
 21の村(市町村制度における村とは違います。)を統合し
 有渡郡有度村(郡名は「有渡」であるが村名は「有度」)発足
 【有渡郡有度村谷田 (うどぐん・うどむら・やだ)


▽1896年(M29年)4月1日
 有渡郡全域を安倍郡に編入
 【安倍郡有度村谷田 (あべぐん・うどむら・やだ)


▽1955年(S30年)4月1日
 有度村全域を清水市に合併
 【清水市谷田】


▽1958年(S33年)4月1日
 清水市の旧有度村の地域のうち
 中吉田全域、平沢全域、谷田の一部、中之郷の一部を静岡市に編入

 
谷田、中之郷が両市に二分されたことになる。

【静岡市谷田・清水市谷田、※静岡市中之郷、清水市中之郷】

 このとき実施された静岡市への編入は
 ポーラ化成工業の敷地が静岡市側へ取り込むような形になっていること
 大和製罐の敷地が玄関部分だけは清水市側に残されていることなど
 恣意的なものが感じられますので
 多分に政治的な決着があったのではないかと想像されます。

 ※「中之郷」は、旧美和村の「中ノ郷」とは別です。

▽1958年(S33年)11月1日
 静岡市中之郷の町名を弥生町に変更

 
 これは、58年6月1日に静岡市に合併した旧美和村の「中ノ郷」が「静岡市中ノ郷」となり
 「静岡市中之郷」と「静岡市中ノ郷」が併存することとなり、両者の区別が煩雑になったためだと思われます。
 (実際、「之」と「ノ」の厳密な書き分けを地元住民以外の市民に徹底するのは困難でしょう。)
 
 一方、谷田のうち静岡市となった谷田は町名変更されず現在に至っています。

 (1993年1月1日にも谷田、中之郷、草薙の各一部が旧静岡市に編入されていますが
  これは静清区画整理事業による市境の整理によるものでしょう。)

▽2003年4月1日
 静岡市と清水市が合併
 清水市の町名は「清水市◯◯町」を「静岡市清水◯◯町」のように
 原則として「清水」を冠することとなったため
 谷田地区の町名は「静岡市谷田」「静岡市清水谷田」となる。


 (2004年11月27日にも、「清水谷田」「清水草薙」の各一部を「谷田」に編入していますが
  これはもともと県立大学の敷地の一部であり、実態に即した変更ということでしょう。)

▽2005年4月1日
 静岡市が政令指定都市となる。
 区割りは旧静岡市が葵区と駿河区に二分され、旧清水市は清水区となり
 旧両市をまたぐような区割りの設定はされなかったため
 「静岡市谷田」は「静岡市駿河区谷田」、「静岡市清水谷田」は「静岡市清水区谷田」となる。


 〔つづきはこちら

駿府城石垣の刻印のなぞ

2010年07月11日 09時30分30秒 | 駿府のバラード
▽ 駿府城東御門(復元)


駿府城天守閣は三重の堀で守られていました。
現在、内堀(本丸堀)は埋め立てられてしまっていますが(一部は発掘されて見ることができる)
中堀(二ノ丸堀)のすべてと外堀(三ノ丸堀)の三分の二ほどは残されています。



▽石垣の刻印


その堀沿いにある石垣には多くの刻印が残されています。
石垣をよく見てみるとこのような刻印を発見することができます。




▽駿府城石垣報告書にある一覧(現在、地震災害の復旧工事現場に掲示されている)


この印の意味するところは、諸説あるようです。

天下普請(幕府が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事)であった駿府城は
諸大名の家紋や旗の印であったとの説が一般的ですが
この刻印は発見されているだけでも135種類ほどあるので
それ以外にも意味するものがあるのではとも言われているようです。

いずれにしても、散歩のついでに発見すると
今まで以上に駿府城に対する興味がわくのでは思われます。



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駿府城・坤櫓(ひつじさるやぐら)

2010年04月13日 20時52分02秒 | 駿府のバラード

▽坤櫓(ひつじさるやぐら)の石垣です。
 巽櫓(たつみやぐら)は、1989年に木造本建築で再建されましたが、
 坤櫓については、再建する計画は以前からあったようですが
 なかなか具体的な日程は発表されませんでした。


▽4月2日に掲示されたこの工事予告によると
 着工は来年の秋ごろのようで、完成予定は2013年末とかなり先のはなしのようです。





※言うまでもないと思いますが巽(たつみ)は南東、坤(ひつじさる)は南西の方角のことです。
  したがって、坤櫓は南西にある隅櫓(すみやぐら)のことです。



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静岡張子「首振りの虎」

2009年12月02日 05時30分00秒 | 駿府のバラード
▽ 早朝の「人宿町(ひとやどちょう)商店街通り」(町名で言うと七間町・人宿町二丁目・梅屋町)
 東海道は七間町通りから直角に折れてこの通りへ入り、さらに2丁(2ブロック)先で
 左に直角に折れて新通(しんとおり)へと入る。


 駿府城下は東海道沿いの人宿町商店街通り
この通りに10月のえびす講(横田町)で売られる祝い鯛で有名な沢屋があります。

 沢屋は安政元
(1854)年の創業と言われ、だるまなども作る老舗ですが
2010年用の年賀切手に採用されているトラは
この沢屋で作られている静岡張子「首振りの虎」なのだそうです。

年賀切手は年賀はがきほどは使われないとは言え
新年に静岡の張り子のトラのデザインの切手を張った年賀状が全国に配達されると思うと
 ちょいと喜ばしい気分です。


▽ 採用されたことを伝える新聞記事(部分)

お命講のかんざらし

2009年10月12日 21時21分21秒 | 駿府のバラード


ここは寺町二丁目 (静岡大火後の町名改悪で寺町の名は消滅、現在は駒形通一丁目の一部) の
感應寺 (かんのうじ) です。

10月13日は日蓮聖人の命日ということで
日蓮宗の寺院では10月12日から13日にかけ「お命講 (おめいこう:お会式とも)」が行われるようです。
特に盛大に行われる東京の池上本門寺(詳細はこちら)は、全国的に有名なようです。

ここ感應寺も戦前はかんざらし(万灯)をふりかざす行列が
現在の何倍もあったという境内で盛大に行われ
日蓮宗の門徒にかぎらず大勢の見物客でにぎわったということです。

現在では、ほとんど寺院の関係者だけで簡素に行われているようです。
したがって一般市民の間ではお命講のことはほとんど忘れさられてるいるようです。

12日の昼にちょいとのぞいてみると
写真のような飾り付けが施され、往年のこの季節の風物詩の片鱗をのぞかせていました。 







※戦前の感應寺のお命講については、渡辺茂男作「寺町三丁目十一番地(福音館書店)」に活写されています。
(文庫本では講談社文庫からも発行されています。)
 

駿府用水

2009年08月08日 12時00分00秒 | 駿府のバラード



駿府城中堀沿いに設置されている城下の古図(江戸初期のもののようです)です。
駿府の町々にはこのように安倍川から取水された駿府用水が流れていたということです。
(←→は市庁舎前を示しています。)
 




 
現在、市街地ではほとんどが暗渠(あんきょ)となってしまっているため、
現存するかどうかも含めて経路などよく分からないのですが
 〔もちろん、しかるべきところで調べれば分かるでしょうが(笑)〕
中央警察署・追手町消防署合同ビル前、市庁舎本館前あたりは開渠となっているため、
 おおよその経路を想像することができます。

〔全くの余談ながら、警察(県)と消防(市)が合同ビルとなっているのは、
占領下にもたらされたアメリカ流の自治体警察、いわゆる民主警察時代の名残なのでしょう。〕


中央署前 市庁舎前



市庁舎新館(葵区役所)前のあたりはバス停設置のため、やはり暗渠となっています。

このあたりから再び人知れずひっそりと
しずおか信用金庫方面に道路を横断して信用金庫裏側の歩道の下を流れ
くまたか橋
を経由して鷹匠町方面へ、さらに久能街道に沿って流れているようです。
 






こちらは葵区役所向かえ側の外堀(地図の※)です。
ここにはこのような排水管があり、
コイやソウギョ(草魚:コイよりやや細身で、ほお骨(?)が張っている)などがいつも群れています。

10年くらい前(もっと前かもしれません)
毎日、郊外からカワセミが通って来てこの排水管に止まり
小魚をねらっていた姿が話題になりました。

それはともかくここに流れてくる水は
駿府用水の分水なのか、それとも分流式下水道の雨水なのかちょいと分かりません。
はたまた、「駿府御用水」なのでしょうか(!!)
 〔こちらも、しかるべきところで調べれば分かるのでしょうが(笑)〕




駿府御用水について
駿府には、駿府用水のほか駿府城の堀に水を供給するための駿府御用水があり、
下記のサイトなどでも御用水の方は鯨ケ池を水源として、
駿府用水とは全く別のものだと明言しています。

「駿府用水の図」

ところが、この図からはどう見ても途中で合流しているように見えます。
〔老眼、乱視ゆえにそう見えるのかもしれませんが(笑)〕

また、「*市関連のあるサイト」を見ても
「御用水は本丸堀→二ノ丸堀→三ノ丸堀へと放流された」とあるだけで、
 井宮(いのみや)方面から本丸堀までは
どういう経路できたのかといった肝心なところには全くふれていません。

“御用水”の存在は、
 門屋(かどや)の白鳥家に伝わっていた古文書だけが根拠とされているようですが、
ひょっとして江戸前期だけ存在し、
その後は駿府用水と御用水は区別はなくなってしまったのかなどと
素人ならではの大胆な(?)仮説を脳裏に浮かべたりします。(笑)

 それと、戦前は入水(じゅすい)する人さえいたというくらいお堀の水は豊かで
一雨降るとあふれるほどだったということなので
駿府御用水に頼らなくとも湧水だけで十分まかなえていたような気もします。


*市関連のあるサイト
この“あるサイト”は、もちろん詳細にいろいろなことが書かれていて多いに参考になるのですが、
町名の読みの振り仮名はどうも信用できないものが多いです。

全体からすれば些細なことなのですが、
このことがどうも気になり、
あちこちに誤りも多いのではと個人的には不信感を持つ要因となっています。(笑)

 

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小梳神社の花火

2009年07月26日 05時35分45秒 | 駿府のバラード


▽パウル・クレーの絵ではありません。


紺屋町(こうやまち)の小梳神社(おぐし・じんじゃ)の花火です。
20:00と20:50にそれぞれ5~6分程度の
各地のいわゆる花火大会に比べれば、ささやかな花火です。

それでも街中の神社の狭い境内で
すぐ目の前で行なわれる花火は
なかなか迫力があるのです。

それに、見物人も100人もいない程度ですので
押し合いへしあいもなく、見られるのもいいのです。

もっとも、狭い境内でこれ以上
人が集まるようになったりしたら危険で
今後継続できなくなるでしょうから
規模を大きくすることなく
御近所さんが集まる程度がかえっていいのでしょう。

なお、今夜も同時刻で実施されます。




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静岡市と金沢市

2009年07月19日 06時00分00秒 | 駿府のバラード
▽ 静岡駅前公共地下道(パルシェ前)に掲示の金沢市の観光ポスター
静岡市のコピー「色・豊かなまち静岡」が抽象的すぎて何を言いたいのか分らないのに比べ、
金沢市の「時間(とき)が心を染める街」の方がはるかに秀逸だなぁ・・・。



 
ローカルニュース等で報道されていますが
静岡空港(静岡県牧之原市)と小松空港(石川県小松市)とを結ぶ
FDA(フジドリームエアラインズ)が
23日に就航するのをきっかけとして
静岡市は、金沢市と観光振興などに向けた交流連携協定を締結するそうです。
(那覇市とは既に協定済みらしい。)

協定内容(例によってお役所によくある抽象的な言い回しですが)は
▽広報などを活用した両市のPR活動の推進
▽市民レベルの交流促進
▽観光振興などに向けた施策推進
▽歴史遺産や伝統工芸などの地域資源の相互活用

ということで、23日の1番機で静岡市長が金沢市役所を訪れ
 調印するということです。


 
静岡市と金沢市は
静岡市長が「両市は伝統工芸産業が盛んなど似ているところが多い。」
と言っているように、たしかにそういう側面があることは事実です。

静岡市は政令市、金沢市は中核市で
都市としての規模は静岡市が上ということにはなっています。

でも、いくら旧静岡市が徳川宗家ゆかりの町とはいっても
金沢市の町としての品格や伝統文化の懐の深さには
ちょいとかなわないのではないかと思われます。

(旧静岡市が1940年の静岡大火と1945年の米国による無差別空襲により
 城下としての街が壊滅状態になってしまったのに対し
 金沢市は空襲を受けなかったため伝統や文化が温存されたということもありますが)

どうも今回の協定は
静岡市の金沢市に対する一方的な思慕にも似た
片思いの結果に終わるような気がしてなりません。(笑)



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参 考 : 09年6月1日現在の登録人口(登録世帯数)
金沢市  448,489人(188,941世帯)
静岡市  727,665人(295,664世帯)
旧静岡  473,408人(196,410世帯)

※旧静岡は単純に清水区分を除いた数字
なお、金沢市は登録人口より推計人口の方が多い。(ちと不思議) 
登録人口=住民基本台帳+外国人登録
推計人口=国勢調査の数字に毎月の人口動態の数字を加除したもの。
(国勢調査の数字には当然に未登録者が含まれる。)

 全くの余談ながら、石川市は石川県にはなく沖縄県にありました(現うるま市)。念の為(笑) 



南安東村字瓦場

2009年06月25日 12時16分41秒 | 駿府のバラード
北安東村の瓦場屋敷についてこちらに書きましたが、
気の向いたところで南安東村瓦場(現:葵区瓦場町)附近を歩いてみたいと思います。



まず、出発地のきよみず公園内(音羽町)にあるJOPKの放送塔です。
JOPKとはNHK静岡のコールサイン(呼出符号)です。
(JOPKはともかく、JOAK〔東京〕・JOBK〔大阪〕は比較的知られているでしょう。)

放送塔は、ラジオの普及を目的に全国に設置されたもののひとつで
静岡ではこのきよみず公園に1933年設置されました。
かつては谷津山に送信所があり局舎も柚木にあったため、
この地に設置されたのでしょう。




谷津山の裾づたいに瓦場町方面へ向かいます。
このあたりは、瓦場町と春日町(静鉄の春日町駅附近の春日町とは別の春日町です。)
町界が複雑に入り組んでいます。

現地でかつてのよすがを求めるといっても当方の知識のなさもあって
なかなかむずかしいようです。
そんななかで見つけたこの庚申塚にはちょいと見づらいですが
右側に南安東瓦場と刻まれています。



静岡県内に多い曹洞宗(そうとうしゅう)の元長寺です。
寺の前がかなり広くあいています。(この右手では、新規の墓の分譲が進められています。)

1916年、鷹匠町三丁目(現:鷹匠三丁目)に設立された
静岡女子薬学校(現在の静岡県立大学薬学部)
1924年にここに移ってきたようです。(1950年小鹿二丁目へ移転)

その後、1955年には静岡学園の大学予備校が薬学校跡に移転してきたということです。
土地は、もともとこのお寺の境内地だったのかもしれません。(未確認)
左手の建物は地域の集会所を兼ねた白山神社です。


 

こちらの「瓦場屋敷」についての記事にも書きましたが
瓦場町には渥美さんがとても多いのです。

こんな風に住所の表記を一般的な「静岡市葵区○○町××」などとせず
単に「瓦場町××」というのは、ちょいと小粋で好もしい感じがします。

無意識なのかもしれませんが
きっと静岡市である前に瓦場町であるというこの町名に
誇りを持っているからこそなのでしょう。



敷地が瓦場町、太田町、東鷹匠町にまたがる広大な(?)静岡工業高等学校の跡地です。



ここに静岡学園が移転するとは聞いていましたが進展具合は知りませんでした。
この看板によると2011年4月にはここに移転するようです。


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瓦場屋敷

2009年06月18日 07時00分00秒 | 駿府のバラード
駿府城築城のころ、三河の渥美郷から多くの瓦職人が
駿府に集められたという話はよく知られています。

かつては南安東村であった谷津山近くには「瓦場町(かわらばちょう)」という町があり
この町では今でも「渥美」姓の家が多いようです。
(1935年、南安東の小字(こあざ)であった「瓦場」を町名に採用。)

もちろん、ここで瓦用の土が採られ瓦が焼かれていたのでしょう。
(最初はここで土を採り、城下の車町で瓦を焼かせたとか)


一方、北安東村であった熊野神社(現;安東一丁目6番4号)近くにも
「瓦場屋敷」という小字(こあざ)が存在していたようです。

安東村(北安東村と大岩村が合併し安東村となった)
1929年に静岡市に合併しているのですが
1932年には「(大字)北安東(字)瓦場屋敷」といった従前の呼称は廃止されています。

駿府城下にならった安東一丁目(現在の住居表示町名の安東一丁目とは範囲が異なる)という「町名」に変更され
「小字」は管理されなくなってしまっています。

(現在は「町」と「大字」の明確な定義の差異はないようですが、
このころは静岡市に合併のつど、城下の駿府市中の例にならったいわゆる「町名」に変更されていたようです。)

したがって、この「瓦場屋敷」という小字の正確な場所は
大昔の公図を見るか地元の古老にでも聞かないかぎり分からないでしょう。

『この北安東村の瓦場屋敷でも瓦が焼かれていたのだが
瓦の納入の際の不都合により職人たちが処分されてしまったため
この地区の瓦焼きは早期に廃止になってしまった。』
という話があるようですが、真偽のほどは分かりません。



ところで、熊野神社のすぐ裏手には、昔から粘土屋さんがありました。
(現在、建物は残っているが20年ほど前に城東町60番11号に移転)

ここに粘土屋があったということは
現在はともかく過去には良質な粘土が採れたということではと思われます。

1300年以上前からあったという熊野神社あたりを歩くとき
もしかしたらこのあたりが瓦屋の屋敷跡だったのではと想像をたくましくし、
過去の歴史に思いをはせるのもおもしろいのではと思います。

そんなことを考えるのはお前だけだと言われそうですが(笑)

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北安東村(きたあんどうむら)

2009年06月05日 05時07分01秒 | 駿府のバラード
現在、県立静岡城北高等学校や県立総合病院がある地域は「北安東(きたあんどう)」という地名です。
(行政町名としては北安東一丁目~北安東五丁目の5か町。)

この北安東という地名は
安東の北にあるから北安東だと思っていらっしゃる方が多いでしょう。

それはある程度正しいとも言えますが
完全に理解していることにはならないかもしれません。

というのは
 その昔
(1889年に市町村制度ができる以前)
 「北安東村」と「南安東村
(現在の太田町・東町・音羽町・春日町・栄町・森下町・八幡一丁目・南町・泉町などの地域)」があり
そのうち南安東村は豊田村の一部となり
北安東村は大岩村と合併した際、南安東村が既に消滅していたためか単に「安東村」となったからです。


あらためて記すと次のとおりです。
~~~~~~~~~~~~~~
1889年4月1日
「北安東村(安倍郡)」 + 「大岩村(安倍郡)」  →  『安東村(安倍郡)』
 「南安東村(安倍郡)」 + 「 豊田地域(有渡郡)」 → 『豊田村(有渡郡)』 1896年安倍郡に

=正確には
柚木村、長沼村、古庄村、国吉田村、聖一色村、栗原村、
曲金村、八幡村、有東村、小黒村、小鹿村、池田村
~~~~~~~~~~~~~~


つまり
現在一般に安東方面と認識されている地域は、もともとは全域が「北安東」でした。

したがって、考えようによっては
 現在の「北安東◯丁目」という地域は、北安東村当時の北安東という地名が改称されずに残った地域とも言えます。

(現在の城東町の一部なども戦前は北安東であった。)

こういうことを知っていると
現在の安東一丁目、二丁目の一部が
 かつて「北安東町
(きたあんどうちょう)」という町名で
「北安東」という町とは別個に併存していたことなども
 納得がいくことでしょう。



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▽ 旧北安東村は現在の町名で言うとおおむね
 安東一・二・三丁目、北安東一・二・三・四・五丁目、城北
(丁目なし)、城北二丁目、長谷町、安東柳町、城東町(一部)を包括する地域。
(余談ながら「城北一丁目」という町はありません。住居表示施行の際、地元の理解を得られなかった住居表示実施の失敗例だと思われます。)

▽ 住居表示実施前の町名は(細部は省略)
現『安東一丁目』= (旧)安東一丁目、(旧)安東二丁目、安東本町、北安東町の一部
現『安東二丁目』= (旧)安東三丁目、北安東町の大部分
現『安東三丁目』= 北安東(番地表示)
 現『北安東一・五丁目』=北安東
(番地表示)、上足洗の一部
 現『北安東二・三・四丁目』=北安東
(番地表示)
現『城北二丁目』= 北安東(番地表示)から城北(丁目なしで番地表示)を経て


清水尻(しみんじり)

2009年06月03日 12時00分00秒 | 駿府のバラード
静岡駅前(北口)の現在の町名は
「※紺屋町(こうやまち)」「御幸町(みゆきちょう)」などですが
江戸期にはこのあたりは駿府の市中ではなく
「安倍郡南安東村(あべぐん・みなみあんどうむら)」でした。

明治以後、南安東村はいったん豊田村に吸収されてから
静岡市へ合併されているので
南安東村当時の地名が明確に分かる資料は少ないようです。

また、南安東村が豊田村に吸収合併されたことで
「南安東」が大字となったため
南安東村当時の大字が小字扱いとなり
さらにその下位区分の小字は、公式には使われなくなってしまったようです。
(個人的見解です。)



ところで、こちらのお店の所在地は
現在の行政町名で言うと、葵区御幸町9番地の3(住居表示は未実施)なのですが
暖簾(のれん)には「※駿府・清水尻」と染め抜いてあります。

「清水尻」は「しみんじり」と読みます。
そのまま読めば「しみずじり」となりますが
静岡式音便で「しみずのしり」→「しみずんしり」→「しみんじり」となったのだと
考えられます。(本当のところは分かりませんが)

清水尻は、小梳神社(おぐしじんじゃ)の湧水がこのあたりまで川となって
染み込んでいたことから名付けられた小字のようです。

南安東村は豊田村と合併し南安東村清水尻が豊田村南安東、
静岡市に合併の際(1908年か?)静岡市南安東となり
さらに1915年、この辺りは紺屋町、下八幡町、宝泰寺門前町などに分割吸収され
清水尻は、地名としては完全に消滅してしまったようです。

1930年には御幸通りが開通し
1945年に御幸通り沿いは御幸町となり現在に至っています。

以上想像半分で書き込んでしまったのですが
もしかしたら、このお店の方とお話をして
上記の内容よりもっと正確な情報を
持っている方がいらっしゃるかもしれませんね。

いずれにしても、南安東村当時の小字が
このような形で守られているのは希有な例かもしれません。


※1
紺屋町というと、現在は静岡駅から延びる呉服町に通じる道沿いを
想像することが多いかもしれませんが、
元々は駅前から延びる通りとは直角に交わる
現在の中島屋グランドホテルの玄関前の道沿いが紺屋町でした。

※2
「駿府・清水尻」という表現は、
駿府時代は市中でなかったのでおかしいと言う方もいらっしゃるかもしれませんが
1889年以前は現在のような市町村制度がなかった時代ですので
現在の感覚の厳密な市町村境の区分はなかったと考えるべきでしょう。


▽ 静岡中心街誌(静岡市立図書館蔵)掲載の地図

▽ かつては「清水尻のお灸」として有名だったという鈴木たばこ店

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駿府城・東喰違御門(ひがし くいちがい ごもん)

2009年05月30日 06時35分22秒 | 駿府のバラード
▽ ここに書かれている図は上が南です。
 
 
▽ 土手の西側 (児童公園側)
 
 
県庁裏の二の丸橋(江戸期の二の丸橋の位置とは違う)を渡ると
右手に児童公園があります。
その児童公園の東側(巽櫓側)は土手で区切られています。
 
子どものころ
どうしてこんなところに出っ張るように
土手があるのか不思議に思っていました。
 
これが東喰違御門の跡だったのです。
 
喰違御門は、内堀(本丸堀:現存しない)と中堀(二ノ丸堀)の間の
いわゆる二ノ丸の東西の行き来が自由にできないように
北側と南側からそれぞれ伸びるように土手が築かれ
土手と土手の間の食い違った場所には門が設けられていたものだそうです。
 
さすがに北側から伸びていた土手は現存しませんが
南側から伸びている土手が残されています。
 
それにしても
二ノ丸より内側の中央部は
陸軍歩兵34連隊を誘致の際
用地確保のために、ほとんど破壊されたのに
よくぞ残されたものです。
 
一見、ただの土手にしか見えないため
つい見逃しがちなのですが
ここに立ち、門のあったころの姿を想像して
しばしたたずんでみるのも存外楽しいかもしれません。
 
 
▽ 土手の東側(巽櫓側)
 
 
▽ 喰違御門の位置(南側の部分が残されている)