駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

臨濟寺 (りんざいじ)

2009年05月21日 12時00分00秒 | 駿府のバラード
▽ 臨濟寺正面(葵区・大岩町・7番)

▽方丈前

▽ 庭園は数年先まで改修工事中です。右手奥に見えるのは茶室です。

▽ 竹千代君手摺之間
(人質時代の家康がここで雪斎禅師に学問を授けられたという)

▽ 手摺之間の天井です。

▽ 義元公廟の説明

▽ 義元公廟 (訪ねた時間が遅くすでに扉は閉められています。)

今川の時代の駿府はどのような町であったのか考えることがあります。
自分の頭のなかに描くイメージとしては、
賤機山(しずはたやま)を中心に据えて
西の京と言われる現在の山口市の印象を重ね合わせたりするのですが・・・・

今川の時代の駿府の町そのものは武田勢によって
ことごとく焼かれてしまっているせいか
駿府の地図というと家康以降のものしかなく
当時の地図や資料などは残っていないようで
町割りの町名などが断片的に判明しているだけのようです。

そんな状況のなかで「臨濟寺」は
数少ない今川の時代をしのぶことのできる場所かもしれません。
(余談ながら、静岡市民は「りんさいじ」と言うことが多いのですが、
 正式には「りんざいじ」です。)

このお寺は、禅宗系のお寺で修行の場であるため
通常は拝観することはできませんが、
近年、年に2回ほど拝観することが許されるようになったようです。

一昨日の5月19日は、
今川義元公の命日忌であるため特別公開がされるため訪ねてみました。

午前中、所要があり現地に着いたのが受付時間ぎりぎりの2時半でしたので
大急ぎでの拝観となってしまいました。
1年ぶりだったのですが、忘却していたところもあり、
思いを新たにして拝観いたしました。

なお、写真は「shizuokanohahaさん」が鮮明に撮っていらっしゃるので、そちらも御覧になってください。

shizuokanohahaさんのブログ「しぞーかとわたし」


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

葵まつり その3

2009年05月15日 08時00分00秒 | 駿府のバラード
葵祭:その2  のつづきです。


▽ 昼間のいかずち神社
(余談ながら、静清信用金庫の本店は、かつて七間町通りにありました。)
 



葵祭の本祭は、14日の午後5時からでした。

 本祭の内容は、こちら を御覧ください。



▽ 「福徳みくじ」に多くの人が並んでいました。
 (街なかにも存外子どもがいるのです。) 

▽ 模擬店も盛況

 ↑ 静岡県情報の人気ランキング


立場(たてば)番外編 : やぶきたの元祖

2009年05月14日 07時00分00秒 | 駿府のバラード
立場:その4 のつづきです。


せっかく旧東海道を歩くのだから
このまま江戸は柳沢吉保の下屋敷あたりまで
歩いて行ったらどうかというお話もあったのですが
今のところ、そこまで元気はありません。(笑)

でも、せっかくですから
街道からちょいと寄り道をして
「やぶきた」というお茶の原樹を見てから帰りましょうか。

それは、清水区中之郷一丁目8番の角を
県立美術館方面へのだらだら坂を300mほど
上がったところにあります。

「やぶきた」は
茶の優良品種の発掘に全生涯をかたむけた
杉山彦三郎(1857年、※有渡郡中吉田生まれ)氏が
中林という竹やぶの北側で生まれた茶に命名したものだということです。

現在、全国で最も多く栽培されているお茶は
この「やぶきた」という品種で
特に県内では、ほとんどが「やぶきた」だそうです。

つまり、この1本の原樹が
全国の大半のお茶畑の大素ということなのでしょう。


▽ 途中にある静清土地区画整理事業完成記念の碑
 (「だいだらぼっち」を表しているらしい)

▽県の天然記念物に指定されている「やぶきた原樹」(駿河区 谷田24番)
 (谷田159番地(区画整理事業と住居表示の実施で町界が変わり現在の中吉田41番)から移設)


▽“やぶきた”には関係ないが、中之郷から草薙にかけては植木屋さんが多い
     (清水区中之郷一丁目9番)


※中吉田の変遷
市町村制度成立以前=「有渡郡中吉田村」
1889年=有度村成立「有渡郡有度村中吉田」
1896年=有渡郡が安倍郡に編入のため「安倍郡有度村中吉田」となる。
1955年=有度村が清水市へ編入「清水市中吉田」
1958年=旧有度村の一部を静岡市へ編入のため「静岡市中吉田」となる。
    このとき静岡市へ編入されたのは中吉田のほか平沢、谷田の一部(現駿河区谷田)、                中之郷の一部(現駿河区弥生町)
 2005年=政令市に移行「静岡市駿河区中吉田」


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

府中・江尻間の立場 (たてば)  その4

2009年05月13日 05時30分00秒 | 駿府のバラード
立場:その3 のつづきです。

▽静岡鉄道、県総合運動場駅


県総合運動場駅の前の道をさらに進みます。
このあたりは、区画整理によって街区の形状が変えられてしまっているため
街道が100mほど途切れてなくなってしまっています。

そこで仕方がないので(笑)
駅前の道を進んで突き当りを右へ折れ、南幹線を渡ります。
この先の国吉田四丁目9番街区と10番街区の間が旧東海道です。
つまりここから旧東海道は、南幹線の1本南側の道を、ほぼ平行して進むことになります。
というより、旧東海道の北側に南幹線ができたというのが本来でしょうが(笑)

このあたりは住宅街というおもむきで
やはり街道らしき風景はほとんどありません。
それでも、このような店もあります。(国吉田四丁目12番)


500mほど進むと東名道の橋脚が見えてきます。
ここは、かつての吉田川が流れていたところです。

一応、ここで立場(たてば)の東側の終着点ということですが
その手前あたりは、江戸期には立場として最も賑(にぎ)わったところかもしれません。

というのは
現在アンドーというスーパーがある場所は
江戸期には「稲葉屋」という休憩茶屋があり
小吉田名物の「桶ずし(長門ずし)」が売られていたところだからです
往時をしのぶものが何もないのが少々残念ですが・・・・

余談ながら
それまで量り売りだけだったワサビ漬けを
鉄道開通後、小さな桶状の容器に入れて
静岡駅などで売りだしたのは
この桶ずしの桶がヒントになったのだということです。


▽スーパーアンドー(国吉田四丁目6番)


▽吉田川の西側のたもとにある稲葉屋(世界すし博での展示から)

▽同じ位置(東名道の下)から

▽300mほど東にある現在の吉田川

▽名物の小吉田の長門寿司の桶、直径10cmぐらいで存外小さい(世界すし博での展示から)

▽街道沿いの民家の下がり藤



<参考:山内政三著、静岡市の百年>

 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

葵祭 (その2)

2009年05月11日 04時58分04秒 | 駿府のバラード
10日の葵祭のようすです。
この日はとても暑い一日でした。

▽ 行列の先頭です


▽ 猿田彦の足が高くあがります

▽ 途中で交代します

▽「鯔背(いなせ)」な若い衆(元若い衆もいるようですが・・・)
余談ながら“いな”とはボラの幼魚、つまり“いなせ”とは、いなの背びれのこと。
(江戸市中の友人の受け売り)

▽ 普段みる駿府衆とは違って威勢がいいです



「葵祭」のおみこし

2009年05月09日 20時43分11秒 | 駿府のバラード
「葵祭」といっても京都のそれでなく
七間町の別雷神社(わけいかずちじんじゃ)のものです。
(一般的には“いかずちじんじゃ”とよばれている。)

毎年、5月13日、14日がお祭りの日ですが
おみこしの巡行(正式な言い方は渡御)
平日では担ぎ手の確保がむずかしいためか
10日の日曜日午後1時から
別雷神社ー七間町ー呉服町ー紺屋町ー小梳神社のコースで行なわれ
また9日の土曜日の夜は前夜祭として地元で実施されるようです。

この神社の祭りは
規模としてはけっして大きくはないのですが
いかにも町なかの神社らしく
どこか格式の高さが感じられます。

現在のこの神社の氏子は
中心部の12カ町なのですが
その昔は駿府96カ町の町年寄りによる自治が
ここで行われたという由緒ある神社でもあります。


▽ 9日土曜日の前夜祭のおみこし(音に注意)
 “みこし”も“おはやし”が加わると、とてもひきしまった感じになります。


▽ 葵区七間町14番地の6
 静岡大火あとの下石町通り(現青葉通り)の拡幅と横丁の開設に伴い大幅に境内が削られたようだ。

一加番

2009年05月09日 04時26分24秒 | 駿府のバラード
▽ 一加番稲荷神社(葵区・鷹匠一丁目・8番)


駿府城は忠長が蟄居させらた後、城主が置かれませんでした。
そのため駿府城の警護のため加番がおかれました。
一加番、二加番、三加番のうち
一加番屋敷は最初紺屋町に置かれていたものが
由比正雪の乱をきっかけに
横内御門に近い位置(現、鷹匠一丁目)に移されたようです。

現在では屋敷跡など全く残っていませんし
区画整理で街区の形状など昔とは違ってしまって
当時の面影など全くないのですが
加番屋敷にまつられていた稲荷神社のみが残されて
現在に至っています。

この神社のお祭りが
今夕から明日10日にかけて行なわれるようです。
それほど盛大な祭りというわけでもないでしょうが
ちょいとのぞいてみようと思っています。



一加番稲荷の隣には、喫茶「ブーケ」があります。
神社のことを指すのに
「一加番」というよりブーケの隣の神社と言った方が
一般には分かりやすいかもしれません。(笑)

それはともかく
ブーケは、コーヒーを大きな手回しミルで
マスターがそのつどひいてくれるのが
好もしい感じがします。




こちらは、駿府公園内にある駿府城下の図です。
緑で囲った部分が一加番屋敷の位置です。



▽ 現在の街区符号で言うと、鷹匠一丁目1番の一部、2~11番付近だと思われます。

 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

5月5日のせいくらべ

2009年05月05日 21時00分00秒 | 駿府のバラード
▽富士山と左手に見える龍爪山(りゅうそうざん:竜爪山とも書く)
 〔雨天のきょうは全く見えませんでした。09年1月撮影したものです。〕



「背くらべ」の歌を作詞した海野厚(うんのあつし 1896~1925)は、
豊田村字曲金(まがりかね:現、駿河区曲金二丁目)の生まれです。

この「背くらべ」の2番の歌詞にでてくる
雲の上まで顔出して、てんでに背のびしている遠いお山とは
曲金あたりからよく見えた富士山と龍爪山のことだと言われています。

そう思いながらこの歌を歌ってみると
いっそう感慨深いものがあります。



▽母校の西豊田小(駿河区曲金二丁目8番80号)にある「せいくらべ」の歌の碑
〔1987年、静岡市教育委員会(児童会館)発行「ひとつの碑(いしぶみ)から(文学編)」から〕


▽駿府公園の沈床園(中央の庭園)にあるカリヨン


こちらは、駿府公園にあるカリヨンで
静岡ライオンズクラブの寄贈により1988年に設置されたものです。

毎正時にメロディーが打ち鳴らされます。
そのメロディーに
海野厚の作詞した「背くらべ」と「おもちゃのマーチ」も
採用されています。

でも、そのような説明は一切ないのは少々さびしいです。
それにずいぶん前からペンキがはげています。

寄贈を受けたものなので
市としてもあまり予算をさきたくないのかもしれません。
また、駿府公園整備計画との兼合いがあるのかもしれません。

それでもペンキの塗り直しと
郷土の誇り、海野厚に関する説明板の設置をぜひしてほしいと思います。

 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

府中・江尻間の立場 (たてば)  その3

2009年05月01日 15時00分00秒 | 駿府のバラード
立場:その1
立場:その2 のつづきです。



JR線によって旧東海道は途切れてしまっていますが
JR線の南側のここを目指してさらに進みたいと思います。

右手(西方向)へ折れて跨線橋を通るルートもあるのですが
今回は左手(東方向)に折れたところにある地下道を通っていこうと思います。

JR線沿いに数百メートル進みます。
静鉄線のガードの先に
北村地下道という名の地下道があります。
北村というのは、多分、栗原の小字(こあざ)ではないかと思われます。

▽地下道の入口です。


▽内部のようす。(夜間は一人歩きはやめた方がいい雰囲気です。)


▽南側へ出たところにある注意書きです。
まあ、注意にこしたことはないですが限度があります。(笑)




南側に出たところには「旧東海道記念碑」がありますが

1 1962年国鉄操車場の建設のため東海道が分断されてしまった。
2 1990年の静清土地区画整理事業(草薙地区の区画整理)で
 静鉄線「県総合運動場駅」東側の約300mが失われてしまった。

ということで、1991年6月に静岡中央ロータリークラブが静岡市へ寄贈したものだということです。

寄贈はいいのですが、お役所はこの種のものの管理は、ほとんどしないのが通例です。
そこでロータリークラブでは地元老人会に依頼して、
清掃や花を植えて常にきれいになるようにしているということです。



▽来た方向を振り返ります。
 黄色の線の方向が失われてしまった旧東海道だと思われます。
(写真の右手に、通ってきた地下道の出入口があり、写真手前方向が清水方面です。)
1960年ごろの地図を見ると、ここには踏切があって、なんとバス路線にもなっていたようです。



▽由来記によると・・・
この記念碑の石(この説明の書かれた石ではなく、隣の「旧東海道記念碑」と書かれている碑のことだろう。)は、
追手町の市役所静岡庁舎(新館)のところにあった静岡御用邸で使われていたミカゲ石でできていることが
書かれています。
なお、静岡御用邸は1940年の静岡大火の際、周囲はほとんど消失したなかで懸命な消化作業で守られましたが、
1945年6月20日未明の空襲では、なす術もなく焼失してしまいました。



▽御用邸のあった場所は・・・



▽分断及び失われた旧東海道(青い線)


 (つづく)


にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 静岡情報へ

府中・江尻間の立場 (たてば)  その2

2009年04月30日 07時30分00秒 | 駿府のバラード
立場:その1 のつづきです。

急ぐ旅ではないので、ちょいと寄り道をします。

▽静鉄線は、1920年代まで古庄電停あたりは旧東海道を走っていました。
その先(清水方面)の後久川を渡り国鉄線を跨ぐあたりは旧道と別れて専用軌道となっていたようです。
もしかしたらこの小路がその名残では?

▽上記の小路の突きあたりを右に折れると、ここへ出ます。
狭くなってくるのでちょいとめげて弱気になりますが、かまわず進みます。

▽さらにどんどん真っ直ぐ進みます。この辺はちょいと道幅が広がります。
国鉄線をまたぐため徐々に勾配をつけなければならないので土盛り区間となり
その跡なので広いのかと勝手に納得します。(笑)

▽ここで行きどまりとなっていますが、現静鉄線はすぐ目の前です。(架線が見える)
この先で現静鉄線と同じ場所で国鉄線を跨いでいたのでは(?) 
確証はなにもありませんが、静鉄線の跡という可能性は大いにあるとは思います(笑)

▽静鉄線とは関係ありませんが、旧東海道歩きをしていると思われる旅人を
 みかけました。(地図とペットボトルを持っています。)
 最近では、かなりの数の人が旧東海道を東へ西へ歩いているようです。




 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

府中・江尻間の立場 (たてば)  その1

2009年04月28日 09時00分00秒 | 駿府のバラード
宿場と宿場の間が距離がある場合
自然発生的に中間地点に「間の宿(あいのしゅく)」ができたようです。

もちろん宿泊は宿場でしか許されないため
休憩所として茶屋などが並んだというもののようです。
その「間の宿」の規模の小さいものを「立場(たてば)」と言ったようです。

旧東海道の府中宿(駿府)と江尻宿の間は3里近くあり、やや距離があります。
そのため、旧東海道小吉田附近
(現在の町名で言うと、古庄(ふるしょう)一丁目1番附近から
 国吉田四丁目14番付近まで)
に休憩茶屋が立ち並び、「立場(たてば)」としてけっこうにぎわったようです。

このあたりの旧東海道をちょいと歩いてみたいと思います。


▽ 古庄グラウンドがあったころの古庄附近
 赤色の線:当時の静鉄線、ピンクの線:現静鉄線

静清国道は未だ開通しておらず、静岡鉄道も旧道を走っていた。
現在の県総合運動場の前身ともいうべき古庄グラウンド(緑色の範囲)
1922年静岡鉄道がつくったもので、
田畑を埋め立てただけの粗末なものであったとは言え、7千坪もあったという。
静清国道の開通に伴い1926年廃止された。
静岡鉄道は1930年、この区間の複線化の際、現在の位置に付替えられたようだ。
(参考:山内政三著「静岡市の100年」)

▽ 旧道を走っていたころ,古庄電停があったと思われる附近
    (道路の右側は古庄一丁目1番街区、左側は古庄一丁目3番街区)

このあたりでは、近在の「追分羊かん」「安倍川もち」と並ぶ
古庄名物の「うさぎ餅」が売られていたという。
(うさぎ餅は、現在は鷹匠三丁目の「松木屋」に引き継がれて売られています。)


▽古庄のモニュメント(?)
<追記:東海道400年の記念事業として同様のものが各所に設置されているとのことです。>

往時のにぎわいを感じさせるものは一切ない。
この附近に、かつて北豊田小学校があったそうだ。
学校跡は後に中村外科医院となったが、今はその医院もない。


▽ 後久川(ごきゅうがわ)に架かる後久橋


▽ 栗原1番の先でJR線にぶつかり旧道は途切れている。

旧道はJR線にぶつかって途切れているが、
この先への道標(みちしるべ)は一切ない。
古庄のモニュメント(?)もけっこうだが、
こういう場所こそ案内が必要なのだが、旧静岡市役所はこういうことに
関心を示さなかったようだ。
旧東海道歩きなどする人は、ほとんど静岡市民ではないので
サービスできないということか(笑)





 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

静岡の新茶をどうぞ

2009年04月22日 17時08分05秒 | 駿府のバラード
▽JR静岡駅コンコースで新茶のサービス(一部修正してあります。)


「しぞーかとわたし」というブログに
きょうJR静岡駅で新茶のサービスがあるということを書いていらっしゃったので
さっそく行ってみました。

さすがに1キロ10万円のお茶ではないようでしたが(笑)
それでも新茶特有のあまい香りはさすがでした。
本当に「静岡市はいいねぇ」です。

明日(23日)も午後3時まで行われるようです。



▽静岡駅前のPRフラッグが新バージョンになった。
 (この部分は追分羊かんと日本平)


お茶の出どこは・・・

2009年04月20日 14時00分00秒 | 駿府のバラード
▽初取引を伝えるNHKローカルニュース




お茶の産地である静岡市は
古くからお茶の集散地でもあり
全国で生産されるお茶の2/3はいったん静岡市に集められます。

静岡市の安西や茶町には数多くの製茶問屋が軒を連ねています。

この安西に隣接する北番町(きたばんちょう)に
静岡茶市場(ちゃいちば)がありますが
ここで、きょう新茶の初取引が行われたということです。

最高値は、御祝儀相場ということもあって
例年どおり清水両河内産のお茶で1キロ10万円

それでも、今年のお茶の生育は順調で
平均価格は例年よりやや安いということなので
今年は新茶も飲みやすくなることでしょう。



▽明治時代の唄に「お茶の出どこは安西、茶町・・・」とあるが
 その安西三丁目附近


▽安西二丁目が起点の茶町通り



▽こちらは、NHKプロフェッショナル出演で一躍有名となった
 前田文男さんの“やまはち前田幸太郎商店”(北番町)


呉服町五丁目の伏見屋

2009年04月11日 14時00分00秒 | 駿府のバラード
呉服町に五丁目なんかないと思われた方は、こちらの地図を御覧ください。
呉服町五丁目は、現在の呉服町二丁目の3、4、5番地あたりになります。

それはともかく、呉服町五丁目の伏見屋(ふしみや)は、
こちらにも書いたように1607年創業の老舗です。

その老舗の店頭に興味深い写真が飾られていました。


▽ 呉服町五丁目伏見屋の文字が・・・

もし、静岡も大火や空襲にあわず
このような店構えの店が立ち並んで残っていたら
川越などの街並みに負けないほどの
しっとりした風情のある町ではなかったと思うと残念な気もします。

まあ、これは空襲を受けた関東から西の太平洋側のほとんどの
都市に言えることではあるのでしょうが・・・・


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

古式稚児行列 (その2)

2009年04月08日 09時00分00秒 | 駿府のバラード
* 前回への追記が長くなってしまったので、こちらに分けました。

▽ 各山車を先導する「年行事」役

▽ 宮ケ崎町を行く


▽このオレンジ色の袢纏は、埼玉県飯能市河原町の有志の方のようです。
 河原町の山車は、明治期に静岡のものが100円で売却されたものだということが
   5年ほど前に分かり交流が始まりました。
 他にも浜松市西区雄踏町浅羽に売却されたものが確認されています。
   これらの売却に至った経緯などはよく分かっていないようですが、
   もし静岡に残っていたら他の大半の山車のように
   静岡大火(1940年)と静岡大空襲(1945年)で焼失してしまっていたことでしょう。

▽ 浅間神社前に到着した各山車
 ここで、稚児に面踊りや地踊りなどが披露される。
・安西踟(神武車・咲耶車) 

・青葉中商連踟(木花車)・駿府本部踟(稲荷車)・本部伝馬踟(暫車)


★ 静岡浅間神社の廿日会祭に呼応するかたちではじまったのが
  「静岡まつり」なのですが、
この静岡まつりのメインの大御所花見行列(家康が家臣を引きつれた花見を再現したもの)などは、
昔は廿日会祭に花を添えるという形であったような気がします。
(実際、今のように市街地中心部だけでなく、かなり広範囲な地域に花見行列が回ってきていた。)

大御所花見行列を市が実施することそれ事体は、けっこうなことだと思いますが
それがこんにちでは、すっかり祭りのメインとなり
それがために肝心のお踟の巡行は、ほとんどの市民があまり興味を示さず
すっかり脇役になってしまっているのはちと残念です。

他市町村の祭りでは、山車や屋台の巡行が祭の最もメインの行事となっているのに比べ、さみしいことです。


▽ せっかくなので、二日目の松方大御所を載せておきます。(笑)


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング