▽ ここに書かれている図は上が南です。
▽ 土手の西側 (児童公園側)
県庁裏の二の丸橋(江戸期の二の丸橋の位置とは違う)を渡ると
右手に児童公園があります。
その児童公園の東側(巽櫓側)は土手で区切られています。
子どものころ
どうしてこんなところに出っ張るように
土手があるのか不思議に思っていました。
これが東喰違御門の跡だったのです。
喰違御門は、内堀(本丸堀:現存しない)と中堀(二ノ丸堀)の間の
いわゆる二ノ丸の東西の行き来が自由にできないように
北側と南側からそれぞれ伸びるように土手が築かれ
土手と土手の間の食い違った場所には門が設けられていたものだそうです。
さすがに北側から伸びていた土手は現存しませんが
南側から伸びている土手が残されています。
それにしても
二ノ丸より内側の中央部は
陸軍歩兵34連隊を誘致の際
用地確保のために、ほとんど破壊されたのに
よくぞ残されたものです。
一見、ただの土手にしか見えないため
つい見逃しがちなのですが
ここに立ち、門のあったころの姿を想像して
しばしたたずんでみるのも存外楽しいかもしれません。
▽ 土手の東側(巽櫓側)
▽ 喰違御門の位置(南側の部分が残されている)
幕府をひいきにしているわけではありませんが、明治以降、どうも「徳川」がズタズタにされているような印象があって、残念に思うことがあります。
また、なにより当時は文化財としての意識が希薄だったので、いたしかたがなかったのかもしれません。
たしかに、駿府城址にかぎらず残念に思うことが多いです。
でも、そういう歴史の話を聞くと、1966年に某国で起きた○○大革命で古くからの史跡が壊されまくった悲しい出来事を思い出します。
それと同じことが日本でも行われていたのですね。悲しいですね。
時代によって価値観も変わったりすので、いたしかたない面もあるのでしょうが、駿府城址にかぎらず残っていたらよかったのにというものがあるのは事実で、文化財は破壊の歴史かもしれません。