<この地図には「新貝丁」と表記されている>
<○=現江川町交差点、 黄線=現御幸通りのおおむねの位置で右手が静岡駅>
<再開発ビル、下層部はペガサートの愛称が付けられている。>
<耐震偽装でビルを取り壊し、2階建で再出発したバイブ2007ビルにある駿府城の図>
◆大阪人なら「しん・たにまち」と読んでしまうかもしれませんが、
新谷町は「しんがいちょう」と読みます。
町名の由来は小梳(おぐし)神社の神官、新谷右近の屋敷があったからだと言われています。
(小梳神社は、旧青葉小学校あたりにあったものを、
駿府城築城に伴い新谷町へ移転、さらに江戸期に紺屋町へ移転したとか)
新谷町は、今はない町名であるばかりか、
どのあたりか認識するのも難しくなってしまっていると思います。
というのは、新谷町は江川町通りの北端からほぼ直角に東へ伸びる
旧東海道沿いの町(江川町通りと旧紺屋町通りの間約40間)だったのですが、
御幸通りの建設に伴う区画の変更で現地の街区の形状が
変わってしまっているからです。
(御幸通りは、駿府の町割りの方角を無視するかのように、
江川町交差点と駅を真っ直ぐ結ぶように斜めにつくられた。)
現在の街区で言うと、おおむね江川町交差点からの伝馬町通りということになります。
現地に建つ新谷町の旧町名の碑の説明板には、
これらの説明は一切なく大変不親切です。
また、路線式の江戸期の城下の町割り(ヨーロッパの都市の住所表示方に近い)を
現在の街区式に拘泥して表示しているのですが、
この表示は返って理解しづらいでしょう。
(道路に面していない土地がどこの町に属するかということは、
現在の固定資産税の課税や土地の登記等には必要なことではあっても、
江戸期の町人地ではあまり意味のないことだと思われます。)
◆旧新谷町のあたり
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして
城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、
内容の正確性を保障するものではありません。