▽ 静岡御用邸跡の碑
静岡市庁舎新館前のバス停前にある
静岡御用邸跡の碑です。
静岡御用邸の開設は1900(M33)年で
明治天皇が関西方面等に旅行される際には
現在より格段に交通事情が悪かったためか
しばしば宿泊されたということです。
用途廃止は1930(S5)年で
1932年には静岡市へ移管されて
永久保存の対象とされて大切に扱われてきたそうです。
静岡大火(1940年1月15日)の際は
周囲がほとんど焼けてしまったのにもかかわらず
懸命の消火作業により類焼をまぬがれたものの
太平洋戦争のアメリカ軍による静岡大空襲(1945年6月19日夜~20日未明)の際の
10万発の焼夷弾による無差別爆撃には なすすべもなく焼失してしまったということです。
余談ながら静岡市のこの種の記念碑には
何の説明板もないのが通例ですが
この碑も目立たない位置になんの説明板もなく
昔からあるから仕方なく設置してあるかのようです。
京都市などでは、公設や民設にかかわらず
ていねいな説明板を設置しているのと対照的です。
▽ 並立されている明治天皇の歌碑(肉眼でも読みづらい)
明治天皇が御用邸の2階から富士山を見て詠まれたものです。
はるかなる
ものと思いし
富士の根を
のきはにあふぐ
静岡市庁舎新館前のバス停前にある
静岡御用邸跡の碑です。
静岡御用邸の開設は1900(M33)年で
明治天皇が関西方面等に旅行される際には
現在より格段に交通事情が悪かったためか
しばしば宿泊されたということです。
用途廃止は1930(S5)年で
1932年には静岡市へ移管されて
永久保存の対象とされて大切に扱われてきたそうです。
静岡大火(1940年1月15日)の際は
周囲がほとんど焼けてしまったのにもかかわらず
懸命の消火作業により類焼をまぬがれたものの
太平洋戦争のアメリカ軍による静岡大空襲(1945年6月19日夜~20日未明)の際の
10万発の焼夷弾による無差別爆撃には なすすべもなく焼失してしまったということです。
余談ながら静岡市のこの種の記念碑には
何の説明板もないのが通例ですが
この碑も目立たない位置になんの説明板もなく
昔からあるから仕方なく設置してあるかのようです。
京都市などでは、公設や民設にかかわらず
ていねいな説明板を設置しているのと対照的です。
▽ 並立されている明治天皇の歌碑(肉眼でも読みづらい)
明治天皇が御用邸の2階から富士山を見て詠まれたものです。
はるかなる
ものと思いし
富士の根を
のきはにあふぐ
静岡のさと
▽ 静岡御用邸の位置(御幸通りは開通前、しずおか信用金庫前から静岡駅までの御幸通りの開通は1934年)
▽ おおむね 静岡市庁舎新館・NTT追手町ビル・しずおか信用金庫追手町支店がある辺り
▽ 静岡御用邸の位置(御幸通りは開通前、しずおか信用金庫前から静岡駅までの御幸通りの開通は1934年)
▽ おおむね 静岡市庁舎新館・NTT追手町ビル・しずおか信用金庫追手町支店がある辺り
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