新茶の季節ということで
身近な駿府公園(2012年4月、駿府城公園に名称変更)に
お茶のゆかりを訪ねてみましょう。
身近な駿府公園(2012年4月、駿府城公園に名称変更)に
お茶のゆかりを訪ねてみましょう。
現在栽培されているお茶のほとんどは
“やぶきた”という品種なのですが
このやぶきた茶の産みの親が
杉山彦三郎氏(1857~1941)で
その功績を顕彰する胸像碑です。
碑にも説明があるように
氏は現在の※駿河区中吉田の生まれの民間育種家で
竹やぶ(現:駿河区中吉田41番)を開墾して品種改良に取り組み
北側にあったのが“やぶきた”、南側にあったのが“やぶみなみ”と
命名されたというわけです。
戦後の1955(S30)年に
やぶきたが静岡県の奨励品種に指定されると
急速に普及し現在に至ったということです。
“やぶきた”という品種なのですが
このやぶきた茶の産みの親が
杉山彦三郎氏(1857~1941)で
その功績を顕彰する胸像碑です。
碑にも説明があるように
氏は現在の※駿河区中吉田の生まれの民間育種家で
竹やぶ(現:駿河区中吉田41番)を開墾して品種改良に取り組み
北側にあったのが“やぶきた”、南側にあったのが“やぶみなみ”と
命名されたというわけです。
戦後の1955(S30)年に
やぶきたが静岡県の奨励品種に指定されると
急速に普及し現在に至ったということです。
▽ 駿河区谷田159番地(現:中吉田41番)から移された駿河区谷田24番にあるやぶきた原樹
※
氏の出生地を有渡郡有度村とする資料が多いようですが
有度村の成立は1889年なので出生当時は「有渡郡中吉田村」だと思われます。
(現在の国吉田とするものもありますが 国吉田村は1889年豊田村となっていますのでちょいと疑問ですが、調べようもありません。
あるいは、1991年に中吉田地区、92年に国吉田地区の住居表示が実施されていますので町界が変わったということかもしれません。)
◇1889年有渡郡有度村成立(現在の駿河区と清水区にまたがる地域)
郡名は「有渡」、村名は「有度」
◇1896年安倍郡有度村(有渡郡を廃止して安倍郡に併合)
◇1955年有度村全域を清水市に合併
◇1958年清水市の旧有度村のうち中吉田、平沢、中之郷の一部(現弥生町)、谷田の一部を静岡市に編入
有度村の成立は1889年なので出生当時は「有渡郡中吉田村」だと思われます。
(現在の国吉田とするものもありますが 国吉田村は1889年豊田村となっていますのでちょいと疑問ですが、調べようもありません。
あるいは、1991年に中吉田地区、92年に国吉田地区の住居表示が実施されていますので町界が変わったということかもしれません。)
◇1889年有渡郡有度村成立(現在の駿河区と清水区にまたがる地域)
郡名は「有渡」、村名は「有度」
◇1896年安倍郡有度村(有渡郡を廃止して安倍郡に併合)
◇1955年有度村全域を清水市に合併
◇1958年清水市の旧有度村のうち中吉田、平沢、中之郷の一部(現弥生町)、谷田の一部を静岡市に編入
こちらはマッケンジー婦人を顕彰するオブジェ(?)です。
明治末期から昭和始めにかけての時期は
アメリカ向けのお茶の輸出が大変盛んで
(戦争の影響で中止される1941年7月まで続いたということです)
そのお茶の輸出のお陰で
静岡市の製茶問屋は大いに繁栄したということです。
1918(T7)年、アメリカの貿易商社アーウィン・ハリソン・クロスフィールド商会
(1924年、J.C.ホイットニー商会を吸収し、アーウィン・ハリソン・ホイットニー商会となる) のマッケンジー氏は日本における支配人としてに婦人とともに来静し (当初は西草深町の英和女学院そばの洋館(現存せず)に住んだということです)
お茶の輸出に多大な貢献をしたということです。
1951(S26)年、マッケンジー氏が亡くなったあとも
マッケンジー婦人は静岡に残り
私財を投入して乳児院を経営するなど
静岡市の福祉事業に尽力され
1959(S34)年、旧静岡市の名誉市民第1号に選定されています。
このオブジェには何の説明もないのですが
婦人が存命だったころは広く知られた存在だったとは言え
知る人も徐々に少なくなっている現在は
お茶が結ぶ由縁を含めて
ぜひ婦人の顕彰文の設置が必要だと思うのですが・・・・
明治末期から昭和始めにかけての時期は
アメリカ向けのお茶の輸出が大変盛んで
(戦争の影響で中止される1941年7月まで続いたということです)
そのお茶の輸出のお陰で
静岡市の製茶問屋は大いに繁栄したということです。
1918(T7)年、アメリカの貿易商社アーウィン・ハリソン・クロスフィールド商会
(1924年、J.C.ホイットニー商会を吸収し、アーウィン・ハリソン・ホイットニー商会となる) のマッケンジー氏は日本における支配人としてに婦人とともに来静し (当初は西草深町の英和女学院そばの洋館(現存せず)に住んだということです)
お茶の輸出に多大な貢献をしたということです。
1951(S26)年、マッケンジー氏が亡くなったあとも
マッケンジー婦人は静岡に残り
私財を投入して乳児院を経営するなど
静岡市の福祉事業に尽力され
1959(S34)年、旧静岡市の名誉市民第1号に選定されています。
このオブジェには何の説明もないのですが
婦人が存命だったころは広く知られた存在だったとは言え
知る人も徐々に少なくなっている現在は
お茶が結ぶ由縁を含めて
ぜひ婦人の顕彰文の設置が必要だと思うのですが・・・・
駿河区高松2852番地にある旧マッケンジー邸は
静岡市に寄贈されて現在も公開されています。
参考:静岡市HP、静岡県HP
静岡市に寄贈されて現在も公開されています。
参考:静岡市HP、静岡県HP