玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

ソ連邦解体直前の旅③

2005年10月20日 | ソビエト旅行

 そんな風にして彼女は一日の三分の一を私たちにつきあってくれた。彼女が自分の車室に帰ると私たちは彼女を 「おしゃべりイーラ」 とよぶことに決めた。この旅の全行程に付き添ってくれているガイド嬢もイリーナさんという名だった。ウラジオストク大学をでたばかりであった。二人のイーラを区別する必要があったのである。
 
 「大変だ。おしゃべりイーラが猫になちゃった」 というS氏の声で目を覚ますと、目的地に近づきつつある列車の狭い通路に濃いアイシャドウをした別人のイーラが佇んでいて艶然と微笑むのであった。

 島尾敏雄氏はロシア人についてつぎのように述べている。その観察眼はさすがだ。 『はなやいだ洗練は感じられないが、そぼくで鄙びたい田舎くささを漂わせながら、やわらかに語りかけてくるまなざしが私のこころをつかんでしまう。こうと思い定めたらわき目もふらず、度合いをこえてもやりとおすようなからだのしんにひびいてくるがまん強い親切』

 専制君主ピョートル大帝がネヴァ川デルタ地帯の沼地に建設を命じたセント・ペテルグルブ、そしてドストエフスキーが住んだペトログラード、そして第二次大戦中のドイツ軍による悲劇的封鎖を体験したレニングラードとこの都市は時代と共にその名を変えている。この都市が経験した目まぐるしい変遷は他に類をみない。

 19世紀のロシアの病める知性の代表者ドストエフスキーはロシア国民の最大の独自性を 「無性格」 と呼ぶ。これはロシアの共同体の中ではぐくまれ、自分を無にして人類の中に消え去ろうとするナロードの思想である。僧ゾシマは言う。ロシアのナロードは貧しいがゆえに、その滅私、その信仰心と兄弟愛ゆえに、四海兄弟の理想を実現する資格と使命を負うていると。要は個人と社会とをいかに調和させるかにかかっている。その理想を西欧にみるか、古代ロシアにみるかで西欧派とスラブ派にわかれた。

コメント (2)
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