壇上には発言順に左から原口泉(鹿児島大教授)、加藤紘一、佐高信、西郷隆文(西郷隆盛の曾孫)が並んだ。司会者は事前に四人のパネラーにそれぞれテーマを課していたようだ。すなわち学者、政治家、思想家、生活者としての西郷というわけだ。残念なことに年長の加藤は遅れて原口の話の後に到着し、佐高の話を聞き終わると早々と帰ってしまった。原口は私とは三つ違いの高校の後輩だと知った。面倒見のいい売れっ子教授というところだ。NHK大河ドラマ 「翔ぶが如く」 や 「琉球の風」 来年の 「篤姫」 の時代考証を担当した。西郷は2度にわたり合計して5年間の奄美での生活で儒教、陽明学、老荘の漢書を読むなどの機会を得た。また西郷と確執のあった久光はすごく学問に熱心であったとの発言があった。
加藤は山形県鶴岡の生まれである。家の本棚に南州翁遺訓があり、なぜ薩摩の人のことがと不思議に思ったという。庄内は台風や冷たい風の被害がなくお米が良く取れる。とにかく生真面目一方の風土である。武装解除される側にとって薩摩軍は堂々として寛大であった。このことは庄内にとってはカルチャーショックだった。酒田には南州神社があって今でも月に一回の勉強会が開かれている。母に聞いた話だが父の清三が内務省時代に鹿児島県衛生部長として派遣され、幼児期の一年間を鹿児島で過ごし、その後青森に移った。親戚に昭和史に足跡を残した軍人の 「石原莞爾」 という男がいるがその評価については今でもいろいろな議論がある。加藤は西郷と石原の比較において何かを言いたかったのだろうか。私には未知の分野だ。
佐高は山形県酒田の生まれである。昨日も鹿児島でのシンポジウムに参加したばかりという。鶴岡が京都ならば酒田は大阪といえる。本棚に南州翁遺訓はなかった。西郷は勝者にして敗者だ。絶対値の大きい人だ。完成された人のごとくに扱うのは誤りだ。西郷と似ても似つかぬ人が西郷を称えることがよくあると田中秀征が言うのを聞いたことがある。教師は待てない。答えをすぐ与える。沈黙に耐えられない。西郷はそれができる人だった。斉彬に死なれて以後の西郷は死に場所を探し求め続けていた。そして僧の月照や相楽(さがら)総三のことは常に念頭にあったと思われる。
西郷隆文は奄美での愛加那との子である菊次郎(京都市長)の孫である。それらしき風貌の持ち主だ。鹿児島県日置市の陶芸家だ。昨年NPO西郷隆盛公奉賛会が立ち上げられてその理事長に就任した。9月24日の命日にちなんで毎月24日に鹿児島市の南州墓地の清掃を行っている。文字通り奉賛会である。南州翁遺訓の青少年版である小冊子「西郷(せご)どんの教え」がこの11月に出版された。このように最近活動が始まったばかりのようだ。それで今回の東京でのシンポジウムの開催となったと思われる。最後に薩摩には現に西郷や大久保が存在していたから遺訓なんて必要なかったのだと庄内藩を意識した年輩者の声が響いたのはご愛嬌だった。参加者は約500名と見た。