名だけは存じ上げていた。私が白洲正子の文章に初めて出会ったのはつい先日のことで月刊誌NHK短歌の随筆 「羽化堂から」 の中だ。前登志夫がそこで白洲正子の文章を取り上げていた。槍玉に上がったのは郷里の吉野山に籠って、山人の歌しか歌わなくなったのは残念だ。再び中央の歌壇に戻って活躍して欲しいという意味の新聞コラムである。それを読み馬鹿馬鹿しく思ったという白洲正子の 「吉野山のもみじ」 という小文だった。そこには登志夫の短歌二首が引用されている。
山道を行きなづみをるこの翁(おきな)たしかにわれかわからなくなる
フン、街の濁りきった空気の中で、右往左往したところで、忙しくなるだけのことで、彼が求めている『われ』と出会うことはできまい。前さんだって霞を食って生きているわけでないから、テレビにも出るし、講演もする。(中略)だが、テレビも、講演も、いわば自分自身を切り売りしているだけで、そんなところにはほんとうの『われ』は全面的には生きていない。吉野の山へ還る道で、翁となって行きなづみながら、『たしかにわれかわからなくなる』時間の中で、辛くも『われ』を取りとめているのだと思う。
フリー百科事典『ウィキペディア』で白洲正子を調べる。薩摩志士の伯爵家に生まれた自らの性質や出自を強く意識した生涯であったとある。ついで白洲次郎について調べた。そのエピソードの項に、結婚当初正子を 「薩摩の奴らは、江戸に入場した時は・・・・・」 とからかったら、正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降薩摩を揶揄することはなかったとある。また名言集の項に、『わからん』(正子の「西行」を読んで) とか 『一緒にいないことだよ』(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて) とあった。
立枯れてすでにひさしき杉の木にあかあかと冬の夕日差しおり
立枯れの杉の木に美しい夕日がさしている、-ただそれだけのことなら、和歌と無縁な私にでも詠もうと思えば詠める。この中には子規の唱えた写生、折口信夫の無意味な故にこそ美しいやまと歌の味わい、それと共通するものもふくまれているだろう。だが、歌には形がある。調べがある。心がある。私は歌は詠まないが、陶器や絵画・彫刻、音楽からそういうことを学んだ。そして先ず語りかけてくるのは、不思議なことにいつも眼には見えない心なのであった。