玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

捕虜収容所集団脱走事件

2010年10月21日 | ねったぼのつぶやき

 '44年8月5日、真冬のオーストラリア(カウラー当時人口3500人)の、月の明るい凍てつく深夜、計画に従い1000人余の日本軍の捕虜収容所で”突撃ラッパ”が鳴り響いた。「デテクルテキヲ、ミナミナコロセ!」と教えられた響きだ。収容されていた大部分は、南洋諸島からジリジリと敗退せざるを得ず物量・病気・飢え・ジャングルでの死線を彷徨った兵士や、戦艦や輸送船から投げ出され・撃沈され米軍に救助された兵士達だった。何の情報もは入らない中、日本政府や軍の立場から「捕虜はあってはならぬ・ありえぬこと」で、公式には認められなかった人達である。

Tomb_japan

 適性国人の抑留施設から捕虜収容に変わった施設は、イタリア人(ドイツの連合軍として参戦)や日本領下の朝鮮・台湾人もいた。カウラの中心から南西へ3・2キロ。夜間は明るい照明に照らされ、3重の鉄条網で囲われ、周囲は無人地帯が設けられていた。明るく楽しげに捕虜生活を送る伊人(同じ白人社会で地域に溶込み、男手不足の農業を手伝いワインを楽しみノドを披露など)とは反対に、「捕虜は恥」と教え込まれていた日本兵は恥辱から逃れるため偽名を使い、もう一度脱走して国に忠義を誓い、死に場所を得たいとして命令には反抗的で鬱屈していた。収容所の過密もあって日本人を分断しようとなった。家族一体意識があった軍はそれに強く反発し、かねての脱走計画に火がつき、トイレットペーパーに丸印をつける形で評決され(下記の証言者)挙行された。目標は’強硬脱出’のみ。その後は一切計画されてなかた。そして9日後には半数の死・負傷者を出して制圧された。

 ’64年未だ反日感情の残るなか日本人墓地は本格的に整備された。オーストラリア各地で亡くなった日本人と合わせ522名が葬られ、順次桜の植樹や日本庭園等も造られた。桜の花が咲く10月には慰霊祭が行われる。その後歌われるという「ヤシの実」を前回の会合の最後にかっての留学生が独唱し、収容所でハンセン氏病と診断され隔離部屋に入っていたため難を逃れたという方(帰国後・長島のハンセン棟に居住)の姿もお見受けした。以下は、ある他校の女子高生達が取り組んだ関連記事である。:http://www.sanyogakuen.net/cowra/index.html

コメント (2)
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