関東甲信地方は6月5日に梅雨入りしたと気象庁が発表した。小学校の終業式は7月20日だ。梅雨明けは一学期が終了する頃になるだろう。小学生が楽しみにしていた水泳の授業は、予定の半数以上は中止になっている。しかしこの時期の雨はクヌギの樹液の分泌を盛んにし、そこに多くの昆虫が集まる。4人の小学生たちは8時ごろに懐中電灯持参で保護者同伴を条件にクワガタとカブトムシの捕獲に出かける。その数はこれまでに20匹近くになったという。
ことわざ「月にむら雲、花に風。思うに別れ、思わぬに添う」はだれしもが容易に理解するだろう。ところが私は「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」という章句に悩まされている。これは正法眼蔵の第一巻「現成(げんじょう)公案」にある。この第一巻は道元禅のエッセンスを簡潔にしかも美しくかつ余すところなく表現していると言われている。その冒頭に「佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」とある。
「もともと仏道はあるという立場にも、無いという立場にもとらわれないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱があるのである。しかしなお、そのことがわかっていながら、解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば迷いは広がるばかりである」という解釈があった。最初に私が出会ったのは「花は人生における楽です、草は人生における苦です。楽をも求めず、苦をも嫌わず」ということになります」だった。
そうこうしているうちに中野孝次著の「道元断章」に出会った。以前に私が読んだことがある「すらすら読める徒然草」の著者である。中野氏はつぎのように述べている。「いかに生きることに執着しても、生は衰え、散り、いかに忌み嫌っても死は容赦なく育ってくる。(現代のように)いかに生活圏から遠ざけていても、決して去らないのが死である。むしろ人が死を見まいとするだけ、かえって死は容赦なくやってくる。人の意志にかかわらず必ず来るのが死なのだ」