関東地方の二月の雪はこれで三度目だ。いずれも大雪で家の前の除雪作業に追われた。幹線道路で立ち往生する車が見られるのも珍しいことである。さらに明後日の19日も最高気温3℃で雪になるの予報である。近年にない雪の当たり年となった。昨日の日曜日に庭の中のあり余る雪をかきあげて小山を作り、通路を作った。これに気付いた近くの幼児二人が庭に来て長い時間遊んでいた。幼児の目には小山はすべり台であり、通路は雪の回廊だ。
つれあいが彼女の兄と久しぶりに郷里の言葉で電話で話しているのを耳にした。話の内容は忘れたが、ふと我が身をふりかえることになった。彼女に郷里の言葉がよみがえるのを耳にしていると、会話の外にいる私を複雑な思いが襲った。彼女は私と夫婦として過ごした時間の方が彼女の兄弟たちと過ごした時間よりはるかに長い。過ごした時間の長短など全く無意味である。その時に私を襲ったのは余所者感とでも言うべきか。あるいは夫婦は他人同士だと気付いた言うべきか。生活を詠んだ歌「嫁にして 余所者にして 末席に汁をすすれば掌(て)にあたたかし(今井恵子)」はよくわかる。
人はいろいろな関係性の中で生活している。友人関係、仕事関係と家族関係などである。女性を中心に家族関係を考えれば、兄弟姉妹、夫、子供、孫がある。たしかに夫婦関係だけは血縁がない。ことわざ辞典を久しぶりにひらいてみた。「夫婦は他人の集まり」の説明には「夫婦はもともと他人同士であったのだから、気心が合わず不和になったり、離婚したりすることもあるということ」と悲観主義的解釈である。夫婦関係で思い出す歌がある。南日本新聞歌壇のつぎの投稿歌を、永田和宏はあちこちで紹介する。「逝きし夫(つま)の バッグの中に残りいし 二つ穴あくテレフォンカード(玉利順子)」
まぎらわしいのに「兄弟は他人の始まり」がある。「兄弟は子供のうちは最も身近で仲が良いが、成人して家庭を持つようになると妻子への愛にひかれたり、利害の対立が生じたりして、兄弟間の肉親の情はしだいに薄らぎ、疎遠になり、ついには他人のようになっていくという人間の真実を言ったもの」とある。ここで「姉妹は他人の始まり」でないことはそれほど重大ではないのだろう。幸いなことに私はこのことわざから免れている。