ART&CRAFT forum

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「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅱ-  上野 八重子

2017-08-23 09:47:20 | 上野八重子
◆写真 4飾り紐( 豊雲記念館蔵)

◆写真1.頭飾り紐 豊雲記念館蔵

◆写真2.飾り房(環状ルーピィング)豊雲記念館蔵


 ◆図1.環状ルーピィング

◆写真3.ポンチョの縁に付けられた飾り紐  豊雲記念館蔵

◆図2

◆図3.



◆写真5.飾り紐(口ばし、頭部分、尻尾、の芯)  豊雲記念館蔵


◆写真6.飾り紐(蕾、戦士の鼻に綿を入れボリュームを出す)  豊雲記念館蔵


◆写真7.貫頭衣  豊雲記念館蔵

2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅱ-  上野 八重子

 ◆紐・帯?
 紐と帯の区別はどこで決めるの…?幅、太さ、長さなどの基準は? ふと素朴な疑問がよぎり広辞苑を引いてみました。
帯=着物の上から腰に巻いて結ぶ細長い布。
紐=物を束ねまたは結びつなぐ太い糸、また細い布、皮など。
とあります。大まかに言えば紐も帯も言い方の違いだけで巻く、結ぶ為の細い布だという事でしょうか。しかし、それ等の使い方以外にアンデスでは房飾りに使われ、様々な技法を用いています。
(写真1)頭飾り紐(長さ5㍍幅3㌢)の両端に付けられたルーピングによる飾り房。6本の紐部分、上側の幅広部分、下側の顔文様部分共に色糸を替えながら環状にルーピングしています。
(写真2)遊び心満点の飾り房・環状ルーピング
※環状ルーピング
一番簡単な技法と言えるでしょう。スタート紐にループを作り、次の段は前段の根元をすくいます。
環状にグルグルと下に進んでいきます。見た目は編物のねじりメリヤスと同じです。

◆ ルーピング
 紐からちょっと脇道にそれますが、ルーピングの話をしてみましょう。
 ペルーの南端、アレキーパの町からアメリカンハイウエー(NASAが月面着陸の訓練をしたという砂漠、その中を通る真っ直ぐな道)を車で7時間。そんな海岸地帯にナスカの町はあります。紀元前から紀元2~300年にかけて文明が栄えた所で、有名な地上絵があり今も観光客で賑わっています。
砂漠の中にある町イカは隣町のナスカに比べると立ち寄る人も少なく、そんな寂れた町に国立イカ博物館があり、珍しく展示品の写真撮影がOK。
墓の発掘品がほとんどなので埋葬状態のまま白骨化し、重ねた衣類をまとった骸骨が何体もあり写真撮影がOKとは言うものの、さすがにシャッターは押せません。そんな展示品の中に、鳥や花を3センチ程に形取り、それが幾つも連なり…となんとも可愛らしい物を見つけました。当時、編物しか出来なかった私の目には裏も表も表メリヤス編みに見え、「環状のものがピタッとくっつき1枚の生地に見えている」などとは思いもせず、編み人ゆえの見方をしていて何とも不思議な編物と思えたのでした。 
それから数年後、小原流芸術参考館(現、豊雲記念館)で同じ物を見つけ、その技法がルーピング(単一掛環組織、縫い編みとも言う)でポンチョ(外套衣)の縁にグルッと付けられている装飾品の一部とわかりました(写真3)。これを初めて目にした人は必ず「可愛い~、1つ欲しいっ!」と叫んでしまうのです。
では、どうして欲しくなってしまうのでしょうか。

※色が鮮やかな事、配色が自由である事。 自分の持っている感覚と違う魅力
※形も千差万別、だが抽象的ではなく動植物とわかる程度の簡略化。(写真4)
※小さい(鳥で丈3センチ位)ループ密度=6段10目/1センチ

等、綺麗、可愛い、面白いという見た目の欲しさ。
でも、それだけではこれほど気をそそられないと思うのです。他に何があるのでしょう! 
ループ密度を見てわかるようにキッチリと詰まった目の根元をすくっていくのはとても大変だったはずです。染色、紡ぎ(アルパカS撚り双糸)、ルーピング、針。そのどれもが完成度から見ると現代でも通用すると言っても過言ではありません。しかし、ルーピングを好んで作っていた時代は紀元1世紀頃なのです(日本は弥生時代)。この時代に多色を染め、色と文様を自由に操り、衣服の装飾にまで気を配れていたなんて…何という優れた感覚を持つ民族だったのでしょう。またもや脱帽です。それらの技が凝縮されて私達に「魅力」として伝わってくるのではないでしょうか。
 この縁飾りが多く出土しているのはナスカ近辺に集中しています。ナスカは海岸地域。しかし、紡がれてる糸は標高3500メートル以上に生息するアルパカ。
単純に考えれば山と海住人による物々交換と思いがちですが、アンデス歴史学者説では「遠隔地の産物を交易によって取得するのではなくコロニーを形成して、あくまで自集団の手で獲得しようとした」とあります。垂直に分布する高度の異なった環境を利用したということです。要するに「海から山のてっぺん迄、おらが村だ!」ことなのでしょう。 そう考えると染色に藍色が使われていますがアマゾンの藍なのか、それとも秘密の土なのか、地理的な事を考えるとその経路が気になってきました。

◆表情を出す為の細工
 緻密な表面、表情を作り出す為に考えられた内側の細工とは。
※ベースとなる紐状部分の内部には木綿平織りの 細い芯が入っています(伸び止めの役)
※口ばし、尻尾、頭部分の芯(写真5)
※蕾、戦士の鼻には綿を入れボリュームを(写真6)
※きれいなループを作る為にはS撚り糸の場合、左 方向への環脚を上にします(図1)
※使わない色糸は環の中に入れておきます

◆もう一つのルーピング
 ルーピングには前述のループの根元をすくう方法の他にループの間をすくうものもあります。
紀元前6世紀に作られた貫頭衣(写真7)や帽子に使われている技法で、これもきれいなループを作る為にはS撚り糸の場合、左方向への環脚を上にします。当然,Z撚り糸は右方向が上になる訳です。
もし逆にした場合、作業は楽になるのですが撚りが戻って緩めのループになってしまいます。
紀元前の古代人が既にしっかりと撚りを頭に入れ、美しい仕上がりを考えて仕事をしていたのを知ると、情報ではなく体で会得する大切さをあらためて感じさせられます。
また、アンデス技法のほとんどは手作業の為、実際にやってみると気が遠くなるような時間と大変な作業となり、「こんな筈では…」という事もあるかと思います。しかし、これらアンデス技法はただ再現を目的にするのではなく、様々な技法がある事を知ってもらい、その一部でも個々の作品の中に取り込んでもらえる事を望んでいます。そんな思いから毎回、技法を紹介させてもらっています。次回は又、違う紐をご紹介しましょう。

『インドネシアの絣( イカット) 』-イカットのプロセス〈Ⅲ 〉- 富田和子

2017-08-21 09:37:15 | 富田和子
◆[ 図1 フローレス島の腰機]( 作図工藤いづみ)

◆フローレス島


 ◆高床式住居と巨石墓 スンバ島

◆家の床下で織る スンバ島

◆ティモール島

◆自動織機 スマトラ島

◆高機 スマトラ島

2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣( イカット) 』-イカットのプロセス〈Ⅲ 〉- 富田和子

 ◆シンプルな腰機の構造
 腰機は、いざり機、原始機、後帯機などとも呼ばれている。経糸密度を調整する「筬」の無いもの、有るもの、機台を備えて経糸を長く掛けることが出来るもの、さらに長い経糸を板に巻き取るようにしたものなど、腰機にもいくつかの種類と段階があるが、ヌサ・トゥンガラ地方の東部では、筬が無く経糸を輪の状態にして掛ける最も原始的といわれる腰機を使用している。数本の棒を用いただけのいたってシンプルな織機ではあるが、イカットを織るのにはとても適している。

 腰機の構造は、各島によって多少の違いは見られるが基本的には図のようである。
① 輪状の経糸に2 本の棒( B とG ) を入れる。経糸は2 本の棒の間で上下二層になっている。
② 先端の棒( G) は地面に打った杭や家の柱を利用したり、専用の支柱に取り付けて固定する。
③ 手元の棒( B) は、1 本の棒で布を固定しないものと、2 本の棒で布を挟み固定するものや、太い棒に溝を掘り、細い棒をはめ込んで布を挟み固定するものなどがある。
④ 手前の棒( B) の両端に紐で腰当てを取り付ける。腰当て( A) は木製、革製、椰子の葉を組んで作ったものなどがある。
⑤ 緯糸を通すための経糸の開口は綜絖(D) と 中筒(E ) によって行う。
⑥ 中筒( E) には竹や木の棒を用い、中筒を入れることによって隣合う経糸を上下に分けている。
⑦ 綜絖は、中筒の下を通る経糸に対して別糸で取り付け、細長い木の棒( D) に掛けておく。この綜絖を
持ち上げることにより、下に沈んだ経糸を引き上げて緯糸を入れる開口部分を作る。
⑧ 棒( F) は、経糸全体を押さえ、綜絖開口を操作しやすくするための押さえ棒である。
⑨ 緯糸を入れるための抒(Ⅰ) は、細長い棒に緯糸を巻きつけて使用する。
⑩ 刀抒( C) は、経糸に差し込み開口を保つことと、この開口部に入れた緯糸を打ち込むためのもので、
堅く重い木を用い、片側を刀状に削ってある。

 インドネシアでは、一般的に戸外で織っているので、その日の作業を終えると、先端の棒を支柱からはずし、そのままクルクルとたたんで、家の中にしまう。また、急に雨が降ってきた時などは、織っている途中でもたたんで持ち運びができる便利なものである。

 ◆ 織り手の身体が機( はた) と一体になる
今でもイカットが盛んに織られているヌサ・トゥンガラ諸島の東部の島々。そのうちの一つ、スンバ島は、巨石文化と伝統的な高床式住居でも有名である。現在はキリスト教を信仰しているスンバ人だが、古来からのアニミズムに基づく伝統習慣も根強く残されていて、かつての王国だった村には、巨石墓と共に独特のとんがり屋根を持つ住居の集落が見られる。
 そんなスンバ島のイカットは、精霊信仰の象徴として人物や動物などの具象的模様が特徴で、人や動物が自由に生き生きと表現されている。村では高床式の家の床下でイカットを織っていた。灸天下であっても、床下は心地良い日陰を提供してくれる。どっしりとした家の柱を利用して、織機が備え付けられていた。輪状の経糸の両端に太い竹の棒を差し込み、先端の棒は柱と柱の間に渡し、手前の棒は紐を付けて腰当てとつなぐ。腰当は木製の大きなもので、腰の当たる部分にクッションが付けられていた。地面にござと座布団を敷き、両足を前に伸ばして腰をおろす。両足の前の地面には杭が打ってあり、足を支えるための板が立てかけてあった。
 腰機は、織り手が腰で経糸の張り具合を調節しながら織るところに特徴がある。中筒開口の時に
はこの板に足を乗せて踏ん張り、腰を引き、経糸をしっかりと張って開口する。綜絖開口の時には膝を曲げて腰を浮かせ、経糸を緩め、綜絖を引き上げて開口する。スンバ島では手元の棒は1 本で、経糸は固定されずクルクルと回る状態になっている。綜絖開口をする時には、操作しやすいように経糸全体を手前に引き寄せて緯糸を入れ、打ち込む時には上に押し上げ、刀抒で勢い良く打ち込んでいる。このようにして中筒開口と綜絖開口を交互に繰り返し、緯糸を入れ、刀抒で打ち込み、輪状の経糸を回しながら、織り手はからだ全体を使って機と一体になり、リズミカルに布を織り進んでいく。

◆経縞や無地との組み合わせ
 ヌサ・トゥンガラ諸島の東端の島、ティモール島を訪れた時のことである。移動中、戸外で作業をしている姿を見かけ、バスを降りた。村の広場の日除けの下で、母と娘が二人で整経をしていた。経絣と縞を組み合わせた布の整経だった。日除けを支える太い柱と地面に打ち込んだ3 本の杭を利用して、整経台ができていた。柱とそれに並ぶ太い杭には紐を掛け、棒を通してある。手前の細い棒には窪みが付けてあり、杭と棒とを噛み合わせてあった。
 スンバ島以外の他の島々では、経絣と縞や無地とを組み合わせた布を多く目にした。まず絣模様に必要な分だけ経糸を整経して、絣括りをする。染色後、括りを解き、再び整経を行う。はじめに一定の間隔をおいて絣模様の経糸を配置する。そして、そのすき間を埋めるように別糸で経縞や無地を整経していく。2 本の棒で張られた輪状の経糸は、移動や追加が簡単で、糸の配置が自由にできる。しかも、整経と同時に綜絖を取り付けることもでき、整経が終わった時点で、中筒を入れ、腰当てを取り付ければすぐに織り出せる。また、経糸の長さや織幅に合わせて、地面に打つ杭の位置を調節すれば、どんなサイズの布にも対応できる。シンプルであるが故に合理的な腰機の特性を改めて見ることができた。

 ◆合理的な機掛け
 腰機の機掛けは、まず輪状の経糸を用意し、その輪の中に数本の棒を入れることから始まる。高機のように、綜絖のあるところに糸を通すのではなく、糸に合わせて後から綜絖を取り付けるという具合に、目的に応じて装置を取り付けながら、織機が形作られていく。また、織るときには自分の腰で経糸の張りを調節しながら織るので、織り手の身体が機の一部となり、初めて織機として完成するという機である。そして、この地域の腰機には筬が無いので、経糸が1 本ずつ並んだ状態が経糸密度となり、布の表面には緯糸がほとんど見えない。筬によって経糸密度を変化させることはできないが、むしろ経糸が密に並ぶことで、経絣の模様がはっきりと現れてくる。また、筬に経糸を通す必要がないので、細かい絣模様の経糸を崩すことなく、そのまま機に掛けることができる。すでに存在する織機に糸を掛けるのではなく、糸に対して織り機を取り付けていくという点、また、自分の身体が織り機と一体になるという点は、高機とはまったく違い、むしろ逆の発想といえるが、初めに糸ありきの腰機の機掛けは、イカットの制作においては、実に合理的な方法になっている。
 効率的な絣括りを可能にしている重要な要素は輪状の経糸であり、そして、その輪状の経糸を切ることも、崩すこともなく染めて、機に掛けて織ることのできる腰機の構造もまた、イカット制作の上で重要な要素であり、布一面に描き出された絣模様もずれることなく、保つことができるのである。

 ◆イカットと腰機
 インドネシアにも、いろいろな織機はある。ヌサ・トゥンガラ以外の地域、スマトラ、ジャワ、バリ、スラウェシなどの各島では、高機も導入され、おもに緯絣や緯糸浮き織りが織られている。また、自動織機が稼働している地域もある。北スマトラのトバ湖周辺に居住するバタック人は「ウロス」という絣と浮織りによる伝統的な布を所有し、現在でも冠婚葬祭など様々な儀式において、ウロスは重要な役割を担っている。この地域のある村では、同じ村の中で、同じ模様のウロスを自動織機と高機と腰機で織っているのを見ることができ、まるで生きた博物館のようだった。ただし、この場合のウロスの布は絣糸を用いてはいるが、わずかに絣の名残をとどめているのに過ぎず、絣模様を形作る布にはなっていなかった。昔は布一面に絣模様が織られていたウロスも多かったが、自動織機や高機に押されたのかどうか… 、残念ながら、現在織られている布には絣はあまり見られず、浮織りが主になっている。
 かつて織機といえば高機が当然で腰機は原始的なものだという概念しか持ち合わせていなかった頃、インドネシアの絣織物は驚異的であり、その存在感に圧倒される思いだった。その後、イカットについて学び、腰機でイカットを織る体験を経て、当初の概念は消えていった。確かに、布を長く、早く、楽に織ることを考えれば、高機の方が効率的である。しかし、絣模様を思いのまま表現することを重視するならば、輪状の経糸や腰機は実に便利で合理的であり、高機で絣を織るのは、もどかしくさえある。

 インドネシアにおいて、今でもイカットが織られている地域は、決して豊かな地域とは言えない。沿岸部の商業地域から遠く離れた奥地であったり、あるいは、絣の宝庫と言われるヌサ・トゥンガラ地方の島々は、乾燥地帯であり、火山や石灰岩が隆起してできた島々で、土地は痩せている。他にこれといった産業もなく、自分で織った布を売ることが唯一の現金収入になる場合も多い。けれど、地面に杭を打って椰子の実の器を手渡しながら行う整経の様子や、地面に腰を下ろして数本の棒から成る腰機で織る姿を、機械文明から取り残された風景として見ることは早計である。この地域に高機が普及することもあり得たのであろうが、既にイカットの合理的な制作方法が完成されていて、高機が入り込む余地は無く、人々は高機を必要とはしなかったはずである。
 最も原始的といわれる腰機。数本の棒を用いただけのシンプルな織機ではあるが、イカットを織るのに適しているだけでなく、簡単な織機の構造からは想像もできないような複雑な布を織ることもできる。


「トンボより蜻蛉」 榛葉 莟子

2017-08-19 13:08:18 | 榛葉莟子

2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

「トンボより蜻蛉」 榛葉 莟子


 いつだったかある日知り合いのおじいさんと立ち話をしていた。話はどうということもない世間話で、いやどうということではない憲法改正に関する話題や、韓流ブームといわれる中高年の女性達の大騒ぎの話題が其処へ交差したり。わたしはほとんどそうですよねなどとあいずちを打つばかりの聞き役だったのだけれど「まったく昨今のおばさんの少女化はどうしょうもないですな」とため息まじりの一言に、そうですよねのあいずちの言葉はのどもとに引っかかったまま吹き出してしまった。わたしも中高年のおばさんだけれども「おばさんの少女化」とはなんてうまい表現なんだろうと感心が先に立ってしまった。叱られているのに傷つかないのは少女という言葉の雰囲気がユーモアに転化しているせいかもしれない。おじさんの少年化にしても同様で、からだのなかの水脈から湧き出る清流のかすかな音が呼び出されて、灯をぽつとともした笹舟がゆらゆらやってきたりする映像が見えてきたりするのかもしれない。それでも、おじいさんの言葉のふしぶしには幼稚化とのはざまは紙一重ですなあの心配の警告の匂いはする。

 紙一重というぎりぎりのあちらとこちらの境界の、隙間に隠れているなにかがひっそりと動く気配の尖端にはなにか詩的に素朴な匂いの水滴がぶら下がっている。そこには郷愁とか情緒とか記憶に繋がる静かな情熱の炎が写っている。

 夏のおわりと秋のはじめが溶け合いながら、経由してゆくはざまの季節のいま、あいまいもこ空間はコマーシャルの文句ではないけれど美しい日本と自慢したくなる湿り気をふくんだ空間。私たちは四季のうつろいの経由と共に生きている。季節のはざまはざま、おわりとはじめの中間の間(ま)の感覚、あいまいもこの空間は当たり前に心身一如の血肉にある。間の感覚は日常の言葉の其処此処に、時に意味として時に比喩として生きているくらい当たり前の間なのだ。間をつめる間をあける間が持てない間がいい間が悪い…きりなくある。おわりよければすべてよしと思い込んでしまった挙げ句のはて、勘違いのスピードに乗せられて走れ走れと尻をたたかれているうちに、私たちの無口な間はどこかにさらわれてしまったのだろうか。乾燥しきっていると日毎に感じる現代の今。生物として人間として真っ当とは、なにをさして真っ当というのか。私たちは私たちの間の感覚、記憶の底をゆったり流れる素朴な清流の音を思い出さなくては、乾燥による心の砂漠化はあまりにもひどすぎる。

 腑におちたりおちなかったり、窮屈に感じたり感じなかったり直感の浮上がある。なにかが引っかかったままピン止めされていたりすることは結構ある。引っかかるというのは感情のはたらき動きと思うし、記憶の関わりがからんでくるとも見える。直観を信じるというところはあるけれど、単に心配性ゆえの感情の揺れの挙げ句のはてに過ぎないという場合もある。腑に落ちないと感じる場合は、外側に向けてその通りとは言いたくない感情が浮上している自分がいるわけで、内側では確信めいたものが漠然とあるようだ。後々になってやっぱりという気づきが待っているのはおもしろいと思う。言うに言われぬ窮屈をからだが先に察知するのもおもしろいと思っている。それに腑に落ちるとかおちないとかの腑は、はらわたつまり腸のことと辞書にある。あの五臓六腑を縮めた言い回しであるとも思われるしからだ全体とか腹の中、心の中などの意味を言っている。丸ごとの自分が納得し腑に落ちると、内部の歯車に油が注入されて軽やかに動き出す感覚を実感する。心の悦びはそんな実感のふちにも生まれる。

 視界をふさぐ程のどしゃぶりの雨がやんだ。突然の雨の直前、わたしは庭先から空を見あげていた。数え切れないほどの赤トンボが舞っていた。飛ぶというより舞う感じだったのは、目の先の無数の赤トンボは二ひきずつ繋がった結婚飛行中だったのだ。造形的なその姿かたちが愛らしい。あの突然の雨でいったい赤トンボの群れはどこに行ってしまったのか。こういう心配はチョウチョにも小鳥にも一瞬でも起こる情というもので、ちゃんとあるべき場所で雨宿りしているはずだし、もしもそうでなかったらとっくに絶滅している。そんな心配をよそに雨があがればどこからともなくひらひら舞いでているのを見届ける。何年か前の冬のこと、庭先にしゃがんでひなたぼっこの小春日和の昼間、ふと首をかしげた眼の先にキラリ光る宝石を見つけた以上にうれしいものに眼が止まった。眼の磁石が働いてというしかない不思議な瞬間、枯れ草の間にはっきり見えた透き通ったトンボのはねの片一方。いつごろのものかという化石化したものとはもちろんちがう。ほのかに黄みがかったこの造形物は、幾何学的な線の交錯がぎりぎりの薄さを支えている。ただ美しいと感じるそこには、なにか古い建造物を見た時に感じる力学的な強い美との共通を垣間見た印象が強く残っている。だからトンボは軽やかな重さが感じられる漢字の蜻蛉がいい。

-お知らせ-
榛葉莟子 個展
2006年9月25日(月)~10月4日(水)
ART SPACE 繭
東京都中央区京橋3-7-10
TEL 03-356-8225


『不思議キルト』 道正千晶

2017-08-18 13:38:59 | 道正千晶
◆ 道正千晶“CHERRY BLOSSOM”2006年 ARTEXTURE(仏、独巡回中)
撮影:KOBE
 
◆“CHERRY BLOSSOM”(部分)  撮影:KOBE

◆“朝もやの中で” THE LIGHT IN THE MORNINGMIST 1989年  H 220× W 180 cm
花の博覧会国際公募キルト展(米巡回展)
撮影:SEKIGUCHI

◆“砂漠-時の移ろい” DESERT THE PASSAGE OF TIME  H 220× W 190 cm
1990年   
撮影:SEKIGUCHI


◆“警鐘”METALIKA 1993年 パシフィックオーシャンキルト展  H 210× W 175 cm
撮影:SEKIGUCHI

◆“風を感じる”CATCHING THE AIR 1999年  H 180× W 150 cm
キルトウィーク横浜
撮影:DAISUKE.A

◆“桜幻想Ⅰ” ILLUSION CHERRY BLOSSOM  2000年  H 200× W 200 cm
撮影:DAISUKE.A 
名古屋キルトフェルティバル

◆“きらめきⅡ” TWINCLE Ⅱ 2000年 キルト日本展  H 213× W 189 cm
撮影:DAISUKE.A

◆“泡 Ⅱ” BUBBLE Ⅱ 2005年  H 211× W 173 cm
撮影:KOBE
キルトナショナル2005(米巡回中)

◆“炎 Ⅱ” ILLUSION FLAME Ⅱ 2002年  H 200× W 185 cm
撮影:DAISUKE.A 
NHK国際キルトフェルティバル

2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

 『不思議キルト』 道正千晶

 私が物を作りたいと思ったのは、いつの頃からだったろう。
あまり記憶は無いが、小学校に入学する前から母の横でいつも何かを作ろうとしていた様に思う。糸と布はいつも身近にあった。そういえば小学校の頃、紙袋作りにはまった時期があった。当時は買い物をすると、新聞紙に包んでくれるか、薄い紙袋や新聞紙で作った袋に入れてくれた。私は、お店屋さんごっこをする紙袋が欲しかった。新聞紙を小さく切って、のりしろを付け貼り合わせ、袋を作る。教わったわけでも誰かと一緒に作るわけでもなく、色々な大きさの紙袋を何十枚、何百枚と作った記憶がある。ただ、作ることが面白く毎日ひたすら作っていたような気がする。Y
 30年ほど前のある日、小さな本屋でハードカバーのきれいな本を見つけた。それはパッチワークの本だった。ベッドカバーがとても素敵で、作りたいと思った。今思うと、基本の4角つなぎだったのだが、本を読んだだけでは難しく、初めて挫折し、そのまま、忘れてしまった。

 20年程前、私は下の娘が幼稚園に入ると同時に、何か始めようと思い、条件に合う物を探しているうち、パッチワークスクールの広告をみつけ、これなら良いかな、程度で入学を決めた。いざ始めて見ると、やった事のある人ばかりで用語も解らない、作り方もわからない、それが私のやる気と好奇心に火を付けて、のめり込んでいくことになったのである。
 自由な考えの先生の影響もあったように思うが、キルトの世界は、自由で間口が広く、一つを追っていくと奥が深く、新鮮だった。プロになろうと、洋裁を専門的に勉強した後だったので、縫うことは苦ではなく、自分でアレンジしていくことが面白かった。

 3年目に入る頃、スクールで教えてみないか、とお話をいただいた。それは初めてのクリエィティブキルトを創り始めた時期でもあった。全く何もないところからデザインをし、布を選び、キルティングラインを描く。ただ楽しかった。そのキルト「朝もやの光の中で」(1989年)は、初めて「花の万博国際キルト公募展」というコンペに応募し入選した。信じられなかった。自分でも頑張れば自分を表現する事が出来るのだと、この時初めて自分の物創りを意識したのかもしれない。しかし、まだこの作品は、他のアーティストのアイディアを少しずつもらって、継ぎ接ぎしたような作品だったように思う。

 5年ほどスクールで教えた後、行き詰まっていた私は美術大学の通信教育でもう一度学ぶ事にした。心身共に疲れ果てていた時期でもあり、私にとって逃げ出したいほど辛い授業でもあったが、それもまた楽しかった。漠然とした疑問や勉強の仕方などが見えてきて、これが自分の世界を強く持つきっかけになったように思う。人生でこんなにも勉強したのは、最初で最後かも知れない。スクーリングの終わりと共にパッチワークスクールも辞め、本当の意味でフリーになった。卒業後、テキスタイルの先生により発表の場を与えられ、ここでも自分の未熟さを痛感し、勉強に限りが無いことを教えられた。こうしてテキスタイル、ファイバーアートと出会うことになったのである。同時に、40年近く前に写真の道に進みたかった私は、グループ展の作品の写真撮影に失敗したことをきっかけに、数十年ぶりに真剣に写真とも向きあうこととなる。作品の写真を、「作品」として自分で撮りたい、そんな思いが封印していた心を目覚めさせた。先生との出会いを始め、同じ方向を向いた友人達との出会い、人生には大切な出会いがある。それが、自分をこんなにも育ててくれていることを、心から感謝している。
 
 私は制作に入るとき、まずテーマを考える。それが決まるとそのイメージの中に入っていく。私の頭の中で俯瞰から物を見ることが始まる。空の中で風に乗り、花びらとなり、光となって私自身が空に舞う。色達が私を取り巻き、あふれ、輝き、光が私を包む。花の形から花びらは次第に離れて空に舞いながら形を変え、それは体の中にある不定型な形になり、やがて制作出来る具体的な形へと変化してゆく。その形は、素材へと見え方を変えながら、テクニックへとつながっていく。映像の様にはっきりと見える物を頭の中に描き、同時に音や光や陽炎の様な見えない物をも見ながら、一つの画面へと具体化していく。この時の私は、イメージの空間にありながら、もっとも自由で真実の自分自身でいられるのかも知れない。素材、テクニックに変化した頭の中の作品は、制作図という目に見える物に変換させられる。それから初めて実際の制作という作業に進むのである。

 最近の作品は、ダイレクトアップリケという、普通のキルトの制作手順とはかなり違う方法で制作している。裏布に接着綿を貼り、裁ち切りで裁った布を重ね、沢山のピンで仮止めし、ミシンで直接止め付けながらキルティングしていく。その上に、糸や布、紙などを更に載せて止めたり、形を変形させて異形なキルトを創ったりしている。最初は輸入プリントといわれるパッチワーク用木綿の布を使っていた。そのうち服地を使い始め、素材の違い(毛、絹、木綿、化繊)や性質の違い(縮む、伸びる、厚い、薄い等)が面白くなってきた。「朝もやの光の中で」(1989年)は、輸入プリント、ハーブ染めの布、「布」のオリジナルの楊柳の様な生地、ウールの絨毯用のロープや化繊の透ける生地を使っている。
 砂漠シリーズ「砂漠 時の移ろい」(1990年)を作る頃から、私の布の興味はインドの布に変わってきた。その夏、作品の上にのって、1日中しつけをかけていた時、汗をかかない事に気づいた。インドでは男性の下着に使うという綿の手紬風の糸でざっくりと織られた風合いの布だった。布には出身地があるのだ。作られた土地の性質をそのまま持っているのだ、と驚かせられた。砂漠シリーズを作り続けているうち、砂漠に行ったことも無いのに作ることが嘘に思えてきた。しばらく、制作は休もう。

 その頃、テキスタイルの卒業制作、「風を感じる」(1999年)でインドの薄い布を使い、植物を方眼紙で描く幾何学的なデザインで作るという、今までとは全く違う方法での制作を始めたことから、風を感じる作品を作りたいと思うようになったが、風をテーマにしてから、光も表現に加わらざるおえなくなってきた。

 本当の風との出会いが私のキルトの制作を真実に向かわせたように思う。それは、2000年の「桜」の始まりでもあった。風は姿を変え、光になり、桜になった。同時に、体の中にある日本の湿気感覚(DNA?)とインドの布のドライ感に少々違和感を覚えていたこともあり、布もインドの布から日本の古い着物の生地に変わっていった。母や叔母たちから譲り受けたものから始まり、骨董市や骨董屋で購入するようになった。
 布は、私にとって初めて意味を持ったのである。
 それらの着物は、生きてきた人たちの生活や、性格、時代、生き方、職業等、私に話しかけてくる。着物は、大切に扱われ、身につけられて来た。着物を、1枚ずつほどく。縫われた糸も、1㎝ほどの柄の変化に合わせて色糸を変えてある物、糸だけ新しい物、繊細なもの、粗雑な物、中には白い絹の着物を赤い太い綿糸で縫ってある物さえあるのだから。
 帯の中身も上質の帯芯が入っている物、真綿で丁寧に包んであるもの、ぼろになった着物をほどきリサイクルして芯にしている物、手ぬぐいや旗などを応用してある物、紙が入っている物など、時代や生活、性格などが、手に取るように語りかけてくる。それらの布と話をしながら、再生していく最近の作品は、布を作った人、それを着た人、それをほどいて作品にしている私との時代を超えたコラボレーションのような気がする。そこには、新しい布とは築けない何かがあるように思えるのである。

 「桜幻想Ⅰ 桜想」(2000年)からの、桜シリーズは桜に感じる華やかさ、哀れ、情念、強さ、はかなさ、そして悲しみを表現したいと、思った。花びらが風に載って自由になる。
風、光、桜が私の心と一緒になった。同時に、赤との出会いが始まる。赤は、心の色、血の色、命そのものであるように輝き私を訪れた。桜シリーズを作り続けているうち、桜は形を変え、花びらは色を変え始めた。それは、今炎になろうとしている。
 まだまだ、進化し始めたばかりである。何時、何処に行き着くか、私にもわからない。それは、またこれからの楽しみでもある。
 昨年、キルトを始めたときからの夢だったアメリカの「キルトナショナル」というコンペに初めて入選し、秋にはフランスの「ARTEXTURE」にも入選した。

 表現方法として、何故キルトを選んだのか。キルトに出会ったのは偶然に過ぎなかったかもしれない。表布、中(綿)、裏布の3層を縫い合わせれば基本的にキルトなのである。私は、綿が好きだ。中に綿を挟みキルティングすると、フワフワとした暖かみのある手触りになり、陰影がでる。布の持つ優しさ、綿のもつ柔らかさが心にフィットし作品に表れる。だから、キルトに魅せられるのであろう。そして、私が今表現したい私の世界に一番自然であるのだ。

 物創りは、自分自身の意識、段階、スキル、知識、発想、発表
の場、とほんの少しずつの積み重ねと進歩が必要だと、最近しみじみ思う。作品を制作し痛感するのは、私には1歩ずつしか進めないのだ、ということ。でも、1歩ずつでも進めるということ(半歩の時もあるが、)が、今の私にはとても大切な事だと思う。  
 今、何が本当に創りたいのか?そこで、気が付いたのはがんじがらめにしていた自分自身だった。キルトであろうが無かろうが、使いたいテクニックがキルトならキルトで良い。画を描きたければ描けば良い、写真を撮りたければ写真でも良い、糸と布で立体にしたければしてみれば良い。    
 今自分が何を表現したいのか、何を使いたいのか?いかに、自分を自分で解放できるか、それによって制作すれば良いのだ。いつか、これらは一つになって行くだろう。真っ直ぐにより正直に、そして真正面から作品に向きあいたい。説明はいらないように思う。作品を見て、私の思いを受け止めて欲しい。私の心を、感じて欲しい。そんな思いで制作している。

『縄からはじまる』高宮紀子

2017-08-17 09:41:11 | 高宮紀子
◆トイシ入れの展開(藁)

◆トイシ入れ(藁)・写真2

◆バンダンの縄(写真3) 

2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご(27) 
 『縄からはじまる』高宮紀子

 いろいろな植物による縄が作られています。加工品や金属など、様々な用途の縄を店で手に入れることができます。昔の生活でも縄は大活躍の道具だったと思います。例えば、蔓の縄、これで橋も作っています。そして葉や繊維。これは植物1本の葉や茎では弱いけれど、束にして綯うことで丈夫な縄になります。昔の民家の屋根裏をご覧になったら縄がたくさん使われていることがわかります。藁や蔓、そして硬そうな竹の縄が使われています。
 縄を綯うというのは一番簡単な技術だと思いますが、均一な太さの縄を綯うのは難しい。例えば藁細工、基本は縄綯いということを人からよく聞きました。このシリーズでもずいぶんと藁細工のことを書いてきました。全ての藁細工に縄ないが必要というわけではありませんが、縄を使う民具は多い。縄綯いの技術には藁を束で扱う技術が凝縮されていると思います。
 縄を綯う技術は簡単です。葉や繊維を束にして同じ撚りをかけて反対方向に撚り合わせる、というシンプルな工程です。しかもこの技術は植物の繊維の強さを試すことに使うこともできます。自然素材を使うと植物に関心ができ、庭や散歩の途中で見つけた植物が気になってきます。それでこの植物は使えるだろうかと試してみたくなります。手っ取り早い方法が縄をなうことです。葉を生のまま、よりをかけて綯ってみます。そうすると繊維の強さがある程度わかってきます。
 藁細工では縄を見ると、作り手の技量がわかるといわれます。私は最初から技量的なことは無理、上手な人がいくらでもいらっしゃる。例えば、足半では誰々さん、馬では、というようにその道を極めた作り手がおられる。その方々は膨大な作業量から技術を工夫してこられたのですから、そういう方にはかなわない。私が藁細工をやってきたのは、知識を得る楽しみもありましたが、その他に、藁を使ってものを作るというのはどういうことかを感覚的に掴みたいということでした。
 藁細工で最初に行ったのは、柳田利中さんの藁細工ビデオの編集でしたが、それからいろいろな方と藁つながりでお会いすることができました。例えば、藁筆を作っておられる方や、東北地方の作り手さん、韓国の藁と草の博物館の館長さん、そして嬉しかったのは少ないが若い藁細工の後継者ががんばっておられることもわかりました。
 藁細工の技術の素晴らしさを何か違う方法で皆さんにみていただけないだろうか、と思うようになりました。ただし、藁には問題もあります。虫がつきやすいし、ゴミも出る。飾りだといいのですが、実用的なものは作っても使うのが難しい、という意見もあった。それならば、技術展開を造形で見せるということは私にもできそうだ、と思うようになりました。
 技術自体の素晴らしさというのは、博物館のようにそれ自体を伝統的な形、たとえばゾウリで展示しても伝わらない。見た方は、ただゾウリだと思うでしょう。それはそれでいいのかもしれませんが、それより藁細工の技術は現代にも生かせるものなのだ、ということを伝える展覧会をしたい、と思うようになりました。
 二年前、韓国の藁と草の博物館の館長さんとお話した時に、いつか藁細工の交流展をやりましょうと言われ、企画書を提出してみました。不幸にもその後反日感情が高まったこともあり、展覧会の実現が今は難しいということになりました。企画の内容は、伝統的な技術保持者による伝統的な藁細工と実演、藁を今日の生活に活かそうとしている人々の作品、私達の造形という三部の構成だったので、あまりにも大きすぎたというのが今の反省です。
 その後、すっかり頓挫していた藁の展覧会でしたが、たまたま千疋屋ギャラリーでキャンセルが出て、前号の足半の記事を読んで下さったTさんより連絡があり、急遽、藁の展覧会をやってみることになりました。
 展覧会のタイトルをどうしようか、と考えた時に柳田さんの縄綯いが基本、という言葉が頭に浮かびました。それで縄に関係するということで参加を呼びかける作家の顔がタイトルとほぼ同時に頭に浮かびました。そしてタイトルは『縄からはじまる』になりました。
 参加する作家は岩崎睦美さん(縄のバスケタリー)、東明美さん(藁筆)、山本あまよかしむ(草の面)さんと私(素材・技法の展開)の4人です。それぞれ、作る分野は違いますが、みなさん、柳田さんに関わってきた人達で藁、縄という共通項があります。
 展覧会に向けて、私のテーマは素材・技法の展開ということで制作を始めています。上の作品はその一つで、縄の技法ということで伝統的な“トイシ入れ”の方法を展開しています。
 “トイシ入れ” は縄でできているのですが、何箇所か縄を出っ張らせて作るので、縄の進む方向が面白い。また、普通とは違う方法で縄にするという所がずいぶんあって、縄をどういう手順で連結していくか、が面白くいくつか作っています。もう一つ、縄関連ということでゾウリの技術の展開をやってみたいと思っています。
 もう一つのテーマは縄の素材の展開です。様々な素材による縄というのも面白いですが、いろいろな素材が使えるということがわかっても博物館的な展示になってしまう。実際縄を綯う時にいろいろなことが素材の性質で起こるわけです。それを形にしてみよう、というのが今回の課題。
 例えば、写真3枚目はパンダンという呼ばれる素材で縄をなったものです。素材の特徴を手でとらえていくと、こういうこともできる、したくなるというのが自然にわいてくる。それを形にしたいと思っています。パンダンでは折れ曲がったり、こぶを作ったりしています。他にもいろいろな素材で縄を作って、手で触って見てもらいたいと思います。
 宣伝ですが、期間中、ワークショップをやります。千疋屋ギャラリーではあまりこういうことが行われるのは見たことがありませんでしたが、今回、ギャラリーのご好意で実現できることになりました。ワークショップの意味は体験してほしいということ。形を作るよりは素材と向き合い、藁筆を作ったり、縄を綯うことで、自分と素材との関係を作る、というプロセスを楽しんでほしいと思っています。

展覧会名:「縄からはじまる」
-藁の可能性- 縄・藁を使った造形作品展とワークショップ
日時:2006年7月17日から22日 於:千疋屋ギャラリー 
(ワークショップなどにつきましてはhttp://www001.upp.so-net.ne.jp/basketry-idea/pages/sub6.htmをご参照下さい。)
 


読者の皆様へ:
『民具としてのかご・作品としてのかご』の連載は1999年より始まりました。このシリーズで自分とかごの伝統とのつながりについて考えてみよう、と思い書きました。そろそろ違う視点で、というご意見があり、このシリーズを終了し、テーマを変えて再出発したいと思っております。今までお読みいただきましてありがとうございました。新タイトルは未定ですが、かごに関することは変わりなく、新しいものはないと思いますが、また皆さんに呼んでいただけたら幸いです。