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「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅰ-  上野 八重子

2017-08-15 09:27:02 | 上野八重子
◆アンデスの組紐


 ◆アンデス組み紐(パターンの見本)

◆アンデスの組み紐-手が組み台となる- ペルー・チュチェーロ村にて

◆経巻き組織の紐(環状) 豊雲記念館蔵

◆経巻き組織(平) 菱文様・表

◆経巻き組織(平) 菱文様・裏

◆経巻き組織の飾り房(環状) 豊雲記念館蔵

◆経巻き組織の投石紐(四重経の平) 豊雲記念館蔵

◆経巻き組織の帯(五重経の環状) 豊雲記念館蔵

◆経巻き組織の帯(五重経の環状) 豊雲記念館蔵
 -ほつれている部分から中を見たところ-


2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅰ-  上野 八重子

 ◆日本とアンデスの組紐
 「ビュンビュンビュン」中心が幅広になった2㍍程の紐にボールを挟み、二つ折りにして両端を持ち、頭上で勢いよく回し…回しながら手の中の1本だけを放すとボールが勢いよく飛び出して…これを小学校でやると必ず「やらせて~」と児童が飛んできます。 しかし、これは遊び道具ではなく戦いや狩猟に使われたれっきとした投石紐という武器なのです。
 「紐」と一口に言ってしまいますが、幅広のものから日本の帯締めのような細い紐まであり、用途は頭や衣服に巻く装飾的なものと、投石紐という実用的なものがあり、双方共に多種多様な技法が使われています。
 先程の投石紐を見てみましょう。一般的には丸や角の細い組紐が多く、中には日本の模様と同じものもあります。が…アンデスと日本の組み方の違いには大きく分けて二つあり、一つには組み台を使うか使わないかが上げられるでしょう。
日本人は道具を考えるのを得意とする民族と言われています。絹糸文化という事もあり、滑り易い絹糸を早く綺麗に組む手段として、錘のついた組み台は素晴らしい道具だったに違いありません。それに比べ正反対なのがアンデスです。
糸は…と言えば獣毛の強撚糸、組み台は握り拳。片手で糸束を握り、拳が組み台となり糸を組んでいきます。糸束の握り具合、組み糸の引き具合で微妙に紐の固さが左右されます。実際に組んでみると糸数の少ないものなら何とか組めるものの、32本組ともなると配列がわからなくなってしまいます。通常、切り込みボード(日本の組み台をボード化したもの。イギリス人がリハビリ用に考えたという)を使用して組んでいますが、それでも模様に慣れるまでには時間を要します。アンデス人の拳一つで様々な模様を創り出す工夫と根気良さには脱帽です。
 二つ目は紐が中空かどうかと言う事でしょうか。日本の組紐は斜めに糸が組まれるために中が空洞になっている紐が多くあります。実際にはしっかり組まれているので環になっている訳ではありませんが。アンデスの組紐は…と言うと、必ず糸が対角線に移動しますので紐はガッチリと締まり丈夫なものとなります。石を投げる道具ゆえ丈夫さが要求されたのでしょう。しかし「丈夫であれば良い」だけなら無地でよいのに、どれも手の込んだ模様が施されているのです。使わない時は男性の頭飾りとなるからでしょうか。 カラフルな紐を見ていると、身を飾る華麗な雄鳥の姿とダブり妙に納得してしまいます。
 更に、模様の点で違いを言えば、アンデス紐には途中で色を変えたり、無地の中に動物や自然界を図案化したもの、アルファベット等の模様が浮き出ているものが多く見受けられます。これは不必要な色糸は中に入れ、模様に応じて出し入れする面倒な操作が必要となります。日本では、染色技術が発達していた為か最初から1本の糸を段染めや重ね染めで染め分けられたので組む段階での操作は必要無かったのでしょう。
 しかし、こうした優れた手仕事も戦いや狩猟することも無くなった現在では組める人も僅かとなっているようです。
 インカ時代の主都クスコで、在住日本人の友人から「組紐が出来る人が見つかった」との情報で標高3800メートルのチンチェーロ村に出かけてみました。
すり鉢の底のようなクスコの町から、日本では廃車場にすら無いようなオンボロバスで黒煙をまき散らしながら標高を上げていきます。近隣の生活路線バスらしく、車中には大きな荷物をいくつも持つ人、子豚や鶏も同乗、クシャクシャとコカの葉を噛んでいるおじいさんもいて、生活臭が漂うそんな中にいられる事が何だかとても嬉しく感じられました。
チンチェーロ村は織物で知られた村で富士山とほぼ同じ高さ、畑にはジャガイモやトウモロコシ、豆類が植えられ、辺り一面緑色のパッチワークの様。
 実演をしてくれるのはシワクチャなおじいちゃん。いざ始めてみると何だか怪しい手付きでなかなか先に進みません。聞くと、組むのは何十年ぶり…なのだそうです。どうやら何日分かの稼ぎになる高収入バイトの話を聞いて飛びついたらしい…それでも私が帰った後、特訓したのか翌日には糸を変えながら組む模様が出来上がっていました。そこで次に私にも組めるやさしい模様をお願いしたら「その柄は出来ない」と言うのです。理由は「この村の模様では無いから」とのこと。納得! この言葉を聞いてアンデス全般的に疑問であった多くの事が理解できるようになりました。

◆経巻き組織
 ここまでは組みによる投石紐を話してきましたが他にも経巻き組織という技法を使って多くの投石紐が作られています。一見、組紐と同じ模様に見えますが技法的には全く違い、巻くと言う操作になります。これは腰帯機に馴染んだ民族ゆえの発想ではないでしょうか。腰帯機は体を動かす事で経糸のテンションを強くも弱くも出来、中でも最大のメリットは織り面を簡単に裏返せる事でしょう。ゆえに高機では不可能な織り方も可能となります。経巻き組織はその利点をうまく生かした織りでもなく、組みでもない、面白い技法と言えると思います。
経巻き組織とは字の通り、経糸を巻いて模様を作り出す技法です。出来上がりの形は、

 平(裏側の渡っている糸が見える)
 風通(両面同時に出来、反対色の文様となる)
  環状(中空で環に出来る)

が主で投石紐以外にも房飾り、帯、袋物の飾り(本体の袋より大きい) 等に使われています。
操作としては、まず経糸を模様に応じて必要な色糸を用意しますが三重、四重経のものもあります。
まず、張った経糸を緩めて棒に巻き付け、経糸の輪の中に緯糸を通し打ち込みます。経糸の巻き方が左か右の方向かで模様の流れが変わり、菱文様は簡単に出来上がります。こうした菱文様以外にも彼らが得意とする図案化された模様を、色糸を自在に操って表しています
 紐と同じ環状経巻きは他にも袋の房飾りとして多く使われています。付け根の数段を作った所で芯糸に模様と房になる糸を引っかけ、房糸を中に入れたまま模様部分を作り、環状経巻きに膨らみを持たせる効果を狙っています。模様が終わった所で房糸と模様糸を入れ替えて更に飾り房の華やかさを増しています。
他には、環状経巻きでも5センチ幅の帯状になっているものもあり、 ほつれている所から中を見ると、使われていない糸が次の使用段まで飛んでいるのがわかります。又、模様糸3色が細糸になっており地色となる紺、赤をより浮き上がらせています。房飾りも帯もちょっとした小技で、より一層の効果を上げているのではないでしょうか。
 今回は細紐を主に書いてみました。技法と共に古代品の色遣いも見ていただけたらと思っています。  (つづく)



『インドネシアの絣(イカット)』-イカットのプロセス<Ⅱ> 輪状の経糸- 富田和子

2017-08-13 11:11:21 | 富田和子
◆経緯絣 : バリ島

◆[経絣 : スンバ島]

◆[輪状整経:スンバ島]


◆[輪状整経:カリマンタン島]


◆[図1](作図:工藤いづみ)

◆[図2](作図:工藤いづみ)



◆[経糸の重ね合わせ:カリマンタン島]


2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットのプロセス<Ⅱ> 輪状の経糸- 富田和子

 ◆輪状の織物 
 絣は糸を染める前の準備の段階で「絣括り」をして、糸を染め分け、模様を表す技法である。 島ごとに多種多様な模様が織られ、布いっぱいに広がる自由なデザインは、インドネシアの絣であるイカットの魅力の一つである。 人や動物や植物が自由に生き生きと表現されているもの、布全体が大小の幾何学模様で埋め尽くされたダイナミックなものや緻密なものなど色々があるが、細かい模様になると絣括りの一束が2~3mmというものもある。織り上がりの模様通りに糸束を括るので、絣括りは大変手間の掛かるものである。そのため、絣括りを効率を良くする様々な工夫が行われている。その工夫を生み出すポイントは輪状の経糸と織機の構造にあり、それが日本の絣とインドネシアの絣であるイカットの制作方法において、大きく違う点でもある。

 イカットの場合、経糸は輪の状態に準備される。輪状に整経された経糸は、輪のままの状態で絣括り、糸染め、機掛け、機織りといったプロセスを経る。少しずつずらして回しながら織り進み、織り上がって機からはずす迄糸を切ることはない。通常は織り残された経糸を切り離し、四角形の一枚の布として利用される。そのままの状態で使う場合もあれば、さらに裁断したり、縫製する場合もあるが、唯一、経緯絣を織っているバリ島のトゥガナン村では、この布を神に捧げる供物としての織物と、男性の儀礼用の肩掛けや腰帯として、織り上がった輪状のままで使用する場合もある。

◆ 輪状整経の方法
織物のサイズに合わせて、必要な長さと本数の経糸を揃えて準備する作業を整経という。輪状整経は、経糸を1本取りでグルグルと巻きながら、2本の棒に糸を螺旋状に掛け渡す方法である。

 ※水平型
…大きいサイズの布を織る地域では二人一組となって整経をする。2本の棒はしっかりと枠に組んで固定され、その木枠の中に二人並んで座る。経糸用の糸を玉に巻き、椰子の実を半分に割った器に入れ、 手渡しながら左右の棒の上側から下側へ、ぐるりと一周しながら糸を掛けていく。
木枠の端に2本の紐を結びつけ、この間に経糸を通し、1 本ずつの綾を取る。また、絣括りの一束ずつの単位がわかるように、手前の黄色い紐を入れながら整経する。整経後この紐を頼りに経糸を重ね合わせる。

※垂直型…比較的小さいサイズの布を織る地域では1人で整経を行う。台となる角材の両端の穴に棒を垂直に立てる。 経糸用の糸を玉に巻き、足元のポリ容器に入れ、両手を使って左右の棒に輪状に経糸を掛けていく。台には綾棒用の穴もあり、 同様に2本の棒を立てる。日本で使われている整経台に似ているが、経糸は2本の棒を往復する平整経法ではなく、常に一定方向で、ぐるりと一周するように糸を掛け渡し、両端の棒の手前を通過するときにのみ、綾を取るのが輪状整経の方法である。

 ◆ 輪状の経糸を重ね合わせる
 整経した経糸は絣括り用の木枠に移される。輪状の糸束に棒を2本入れて木枠に張ると、経糸は上下二層の糸束になる。 この二層を合わせて、一緒に括ることで絣括りの手間は1/2になる。 上下二層となった経糸は、さらに重ね合わせたり、部分的に移動させたり、折り畳んだりすることもできる。

インドネシア各地では次のような方法が行われている。

 ※経糸全体を重ね合わせる方法
①図1のように、必要枚数に応じて2枚分、3枚分、4枚分…の整経をし、輪状の経糸を一緒に重ね合わせて絣括りをする。 上下二層を一緒にまとめ、さらに重になった糸束を括 る。
 [2枚分=1/4、3枚分=1/6、4枚分=1/8の手間]
②上下二層となった経糸をさらに半分の幅に折り返して、絣括りをする。[1/4の手間]
③上下二層となった経糸をさらに半分の長さに折り返して、絣括りをする。[1/4の手間]

※経糸を部分的に重ね合わせる方法
①同じ絣模様ごとに整経をして、重ね合わせ、一つにまとめて絣括りをする。染色後、デザインに合わせて絣部分を配置し直し、無地や経縞の経糸を加える。
②図2のように、経糸を全体ではなく、部分的に移動したり、折り返して、同じ絣模様の糸束を適宜重ね合わせ絣括りをし、染色後もとの位置に戻す。

※仮織りをして重ね合わせる方法
 整経後、絣括りをする前に10cmほど仮織りをする。機からはずして、仮織りをした部分を基準として、経糸全体を折り畳む。 写真の場合は元の幅の1/6に折り畳んでいる。糸束を整理して、一緒に括る糸束同士を一つにまとめて絣括りをする。

 経糸が輪状であることは、重ね合わせたり、折り畳んだりする作業がしやすく、効率良く絣括りをする工夫のしどころである。その結果、布全体から見る絣模様の構成は、基本的に上下対称や左右対称の連続模様となる場合が多くみられる。効率的な絣括りを可能にしている重要な要素は輪状の経糸であり、そして、その輪状の経糸を切ることも崩すこともなく、機に掛けられるシンプルな織機の構造もまたイカット制作の上で、重要な要素となっているのである。
◆[輪状整経:カリマンタン島]

◆[図1](作図:工藤いづみ)

◆[図2](作図:工藤いづみ)



◆[経糸の重ね合わせ:カリマンタン島]

「ときめきに出会う」 榛葉莟子

2017-08-11 09:16:22 | 榛葉莟子
2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

「ときめきに出会う」 榛葉莟子

 一天にわかに掻き曇り、見上げた空にはもくもく黒雲がわきでている。今しも大粒の雨が落ちてくる気配に一緒に歩いていた知人と顔を見合わせた。来るよ来るよ急ごうっと帰り道を走った。家に着くとまもなくパラパラパラパラ其処いら中にぶつかるようなすさまじい音が始まった。驚いた事にバケツをひっくり返したようなものすごい量の霰(あられ)が勢いよく降ってきたのだ。何事かと猫まで走って出てきた。白色不透明の小さな氷の玉の大群が、緑の地に勢いよく飛び跳ねて四方八方に転がる光景に魅とれた。足もとに転がってきた一粒の氷の玉を透かしてみれば汚れた白さの輝きを見る。みぞれにまじって降る霰や雹(ひょう)は経験済だけれども、大量の氷の霰だけが降り続く現場に出くわしたのは初めてだった。あっけにとられたまま降りしきる霰の大群を眺めていたあのファンタジーな数十分は、天のいたずらだったかのようにもうしとしと雨が降りはじめ、静けさの向こうからカッコウのなく声が聞こえていた。

 こんな機会に霰の漢字を辞書で確認できたのだけれどそのついでにおもしろくもあるし感心したのは、おかきのあられは言うに及ばず、降る霰の様子に似せたあるいは偶然似た霰状の模様や姿かたちを呼ぶのに、霰を頭につけた途端説明や意味を超えた洒落た匂いが漂って来てぱっと感覚を刺激する比喩のうまさ。たとえば霰石、霰絣、霰釜、霰粥、霰小紋、霰酒、霰星等々さまざまな言葉の創造、感覚的とらえ方の日本語の表現にいまさらながらほれぼれする。たかがあられ、されどあられでぜひ辞書の霰の頁を開いてみてとすすめてしまいたい。なるほどなあと前頭葉の新しい豆電球がぽっと灯ったりする。

 そういえば筋肉なんかよりずっと変形自在でいくらでも鍛えられるのが前頭葉だそうだ。創造とか判断とか知性的とされる活動にことごとく関わっていてヒトが人でいられるための中心だという。便利に呪縛されている事に気づかず使われなくなった器官は退化するというのが生き物である故の宿命だという。で、どうなるかといえばヒトは歩き出す前の状態に戻ってしまいヒトが人らしくなくなるという。実際ヒトが人でなくなっているとしか思えない事件が次々起きている事とつながってしまう。それにしても私たちものづくりは直線的便利さよりも、曲がりくねっためんどくささの道中にこそ詰まっている充実を当然のように知っている。物事を簡単に見るのは自分の眼を曇らせ、たいくつを呼び寄せるだけだということも知っている。故に私たちの前頭葉は日々鍛えられているということになるのだよと自分の前頭葉に言い聞かせる。

 それにしても不安定な空模様が続く。新緑から濃い緑に染まり始め満開のツツジの赤がおひさまの変わりのように明るい。けれども田植えするお年寄りの素足は冷たそうで、ツツジの花の熱くらいでは素足の水は冷たいままだ。そこへ氷の霰とは…と、梅雨寒とはいえ油断ならない寒さについつい天をにらんでもはじまらない。歩いたりしていれば野良仕事のおじいさんやおばあさんと挨拶したり立ち話はよくあることで大体はそれだけのいっときの事だけれども、先日の出会いはちょっとちがった。

 近くに陶芸の工房があり、ここはどちらかといえばお年寄りを中心に陶芸を楽しむ方達
のための、町主催の工房なのだが見学を理由に気紛れにのぞいてみた時だった。二十数年来この工房の横を行き来しながら覗いて見ようと思ったこともない其処に、ふと立ち寄ったその時の「ふと」という瞬間の感覚の揺れの不思議を思う。「ふと」は探し求めるものではない。「ふと」は向こうからこちらにやってくる。「ふと」に誘われるままに私はついていった。年長の女の人がとても力強く手びねりで広がり膨らんでいく大きな鉢を造っている最中だった。すごいなあと感心して眺めていると、向こうにいる人がわざわざその女の人の歳を教えてくれた。うっすら額に汗をにじませたその方は八十六歳という。土を練る力強い雰囲気と柔らかな面差しと八十六歳がすぐには結びつかなかった。とても驚いた。執着など高らかに笑い飛ばしたかのように、まっさらな気持ちで大きな鉢と向き合うその精気に圧倒される。自身の内面の充実がかたちを生みつつ輝きを放ちつつかろやかな重ねは造形されていく。そして、その精気の膨らみの輝きの放射に、あこがれを伴った感動がふつふつと沸いてきた胸のときめきは思いがけない喜びだった。

 時には何をしてもつまらなく何を見ても感動しない沈む日々がある。沈んだままいつ浮上するのやら未定の約束のない日々である。そういうときはいっそう静かに感覚の先端を研ぎすますに限る。そうすれば、それは向こうからやってくる。

『つながれた記憶』 三隅摩里子

2017-08-10 10:36:38 | 三隅摩里子
◆三隅摩里子 “感覚浮遊”2002年 下山芸術の森発電所美術館 撮影:長縄 宣

◆“感覚浮遊”(部分) 2002年 下山芸術の森発電所美術館  撮影:普後 均 


◆“Being-触” 1997年 神通峡美術展

◆“内在するもの”(部分) 1991年 新制作展

◆“連鎖する心” 2001年 富山県立近代美術館こころの原風景展

◆“反転する意識 Hemisphere” 
2004年 ワコール銀座アートスペース

◆“反転する意識 Sphere” 2003年 北日本新聞社マンスリーアート展
 
◆“風門” 2004年  坂のまちアートinやつお展

◆“Swinging Sympathy” 
2004年 富山第一ホテルアートギャラリー桜


2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

 「匂いの記憶」  三隅摩里子
 なんら理由もなく妙に記憶を刺激する匂いを感じたことがないだろうか。自然、人工も含めて、香りや匂いのない場所など多分ないと思う。食欲をそそる食べ物や不快な匂いも、普通はその場限りで記憶の隅に追いやられ、過ぎていくものである。 
 私自身子供の頃、匂いがするというのはあたりまえだった。学校の行き帰りに通る田畑も今のように化学肥料ではなく人糞を使っていた。だから、その匂いも季節の植物の香りも、おいしい食べ物の匂いも同列で匂いや香りのするものばかりだった。 
 匂いを意識しだしたとすれば、進学して、東京に住むことになり、今まで当たり前に感じていたものを人工的な匂いの中から嗅ぎわけようとしたからだ。 その後、物作りに関わるようになって、自分の作品のみならず様々な匂いや香りを意識し、嗅ぎ分けるようになった。
 そして、制作の拠点を田舎に移したこともあり、作品の材料集めなどのため、山や森へと車を走らせるようになった。自然の中に足を一歩踏み入れると、柔らかな足裏からの感触とともに、落ち葉や草を踏みしめる音がする。人があまり立ち入らないせいと歩きやすい靴のせいか、フワフワした感触がある。山の中は、草、葉が落ち、枯れ、堆積し土に返り、上に生えるものの養分となることを繰り返している。そして、この柔らかなベッドの感触と共に全身に入り込んでくるのが匂いなのである。
 以前、目当ての植物を求めて何ヶ所かの山に行ったことがある。最後によく行く場所へ戻ったとき、腐葉土と青々とした草樹の匂いに体が満たされていく感じがした。自分に合った匂いと場所を自然に選んでいたことに気づかされた。
 そして、この感触や匂いとともに木立から漏れる光、空気、水のかすかな流れを感じ取っているうちに自然に同化し、そこにあるべきものになっていく錯覚を覚えた。 すると、静かなはずの森が心地よく、賑やかな場所となり、大きな流れの中でリズムを打ちながら共鳴しているように思えた。

素材の記憶
 今は紙、木、金属、繊維などの複数の素材を用いているが、当初は麻を用いていた。
私が東京テキスタイル研究所で学ぶようになったのは、先に始めていた織物の平面性にすぐに動きが取れなくなる思いを感じたからだった。それでも、織機を使ってレリーフ状の作品を作っていた。
 ところが、ある造形演習の後、短時間で作品を仕上げるという課題があった。ちょうど蓑のような作品を作ったところ、先生から「何故あなたはこの作品を織って作ろうとしたのですか」と指摘された。一瞬、自分のしたいことは織ることではないと、このあまりにも簡単な答えに縛られていたものから解き放たれる感じがした。
 しかし、素材に関しては織で麻を用いていたものの、まだ自分に合う素材に出会った感じがなかった。また、好んでいた糸状の天然素材を立体に組み立てるにはどうすればよいのかを迷っていた。
 そこで、自然の素材を用いて立体を作るバスケタリーの授業を受けることにした。技法によって素材が形作られていくのは非常に魅力的だった。しかし、ここでは自分の頭の働かなさに悩まされた。素材、技術、形という方向性でできてくるバスケタリーと自分の想像、素材の持つ意味、そして自分の技術を作り出さなければならない自分の制作とのスタンスの違いを思い知らされた。しかし、バスケタリーの技法と漠然と好んでいた麻が結びつくことで、自分の想いを成長させる作品に出会うことができた。
 それが複数の麻の繊維を用いたコイリングによる作品である。それは、それまでの織りやすい麻から、その性質を押さえつけても出てくる新しい魅力を持っていた。この方法は、空間を縦横無尽に無限にめぐる想像を可能にした。しかし、作品によっては1日1㎝も進めない時間とずっと回転しながら積み上げていく不自然な動作、とりわけ様々な方向へ伸びることで作品自体の重みにより下部が潰れる重量の限界を感じた。このままでは自分の想いを確認するどころか、生み出したものを維持し、移動することさえできない。8年間続いた制作は、次の展開を求めざるを得なかった。
この時点では、素材の性質が少なからず関与していたため、全く異なる性質の素材を使うことはできなかった。結局、自立性という点で木を使ってみることにした。
 最初は、細い枝を束ね、縫い合わせるようにかたまりにしていった。さらに、もう少し太い枝を湾曲させ、小枝の束を縫うように合わせることで、より内包した空間を作り出した。小枝の束はそれぞれ長さも曲がり方も異なっていたが、枠の中に合うものを順番に合わせていくと不思議に最後は全てを組み込むことができた。それは、同じ樹の一部として元に戻ろうとしているかのようだった。
 しかし、この自立性が、表現したいもの以上に制約を感じさせていった。覆えば覆うほどかたまり、樹に戻っていくように感じた。自分に引き寄せるか、自分を自然に添わせるかという駆け引きだった。
 そこで束ねることから、より木の密度を低くし、組み合わせることで中が見える柔らかな空間を作った。ここで、木も複数種のものを使うようになった。空間が生まれたことで、個々のパーツの中に想いを込められるようになった。より自分の皮膚のように思える形状、球体や人型などに近づけることができた。この時点で、木に加え、紙と金属の素材が加わることになった。
 紙は、実際に組み込めない石から形を起こしたものを繭のように合わせ、木の中により有機的な存在として用いた。金属も木や紙に添わせるため編むことで硬質で冷たいものから、柔軟で温度を感じる有機的な形状を現すことができた。

空間の記憶
 作品発表をする際、公募展、グループ展あるいは個展でさえも展示上の制約の中で、どれだけ本人が意識したとしても結果としては差し障りのない消極的な展示になることの方が多い。
 当初作品発表を社会に触れると言うよりは、自分から作品を離す手段と考えていた。しかし、作品の素材が変わることによって、作品と発表する場所や意味も変化していった。今まで美術館やギャラリーという限られた場所であったものが、民家や野外で発表する場を得たからだ。私が展示をする機会を得たのは、おわらで知られる富山県のやつお(やつお得)という町であった。民家は町屋といわれる京都などにも見られるような間口の狭い、奥に細長い家である。ほとんどの家が道路側に客間を持っている。隣家とは隙間なく建てられているため、側面に窓がなく日中でも照明がなければかなり暗く、湿り気がある。展示空間として使えるのは道路側の客間や店舗の土間などである。そこは時には吹き抜けになっており、家の木組みと土壁が見える。当初は木と繊維を使った作品を発表した。
 この土地と空気と建物にどう関わるかという、自分に問うたことのなかった感覚が湧いた。単にそこにあるというだけではなく、その作品を通してどれだけ他と向き合えるのかということが課題だった。
 そして、季節の変化を風に表す町の空気と、守り続けられてきた土地や家の魂のような感覚を作品に込めることができた。
 また、現在は富山市となった風の町と言われる旧大沢野町で、三年に一度開かれる「神通峡(じんづうきょう)美術展」の野外展示に関わった時、冬はスキー場になる芝生の斜面が作品展示の場所となった。会期中、展示作品が壊れるほど非常に強い南風が抜けるところである。ここでは、作品よりも圧倒的な自然が眼に入ってくる。私の素材では自然に飲み込まれてしまうかもしれない。この自然という大きなスケールの前で、私に何ができるのか。作品は、それらに抗うのではなく直感したことを表すように、風を受け、あたかも土から生(お)いで、方向性を自由に変えられるかのような形となった。
 そしてこの頃から、今まで消極的な展示方法と思っていた美術館やギャラリーの空間も私の心の中では変わっていった。単なる器ではなく、建物やそれらを取り巻く自然も感じられるようになったからだ。
 それを最も強く意識した作品展が、元(もと)水力発電所を再利用した下山(にざやま)芸術の森発電所美術館での個展である。国の有形文化財のため導水管やタービン、計器などが建物の中に残されている。作品展は大量の木の枝を運び込み約一年をかけて実現した。
 建物の中の様々な痕跡が作品と関わってくる。通常の建物の縦、横、高さと言う範囲ではなく導水管の中や天井の大型クレーン、そして美術館の一番奥にある一基だけ残された発電タービンや計器の存在までも無視することはできなかった。
 そして、床面に設置するものはごくわずかで、空間を這うように建物と関わる作品となった。空間に吊り下げられたパーツは見る人の動きによるわずかな空気の流れで回転した。見る人は作品に対するというより、作品自体の中で自分自身を感じられる空間を生み出すことができた。
 こうした展示を通して、展示空間のみならず、その場のエネルギーを非常に意識するようになった。作品は作品が作り出す空間だけではなく、作品を置くことでより大きな空間と呼応した。

心の記憶
 自分がなぜ存在し、なぜ作るのかという問いがいつも働いている。
子供の頃、新たなものに触れ、驚き、遊びの中で何らかの再現を試みたことは誰しもあるだろう。実際、拾った木やボルトなどの金属でいろいろ組み立てて遊んだ。織物に興味を持ったのも、その延長線である織機への興味からだった。
 今のような仕事の仕方になるまで、織物を経由して素材の道をたどり、構造は大学で美術系に編入し立体を学ぶなど、自分の習性に従って経てきた過程である。しかし、これらの好みや習性も作品を制作する上では基礎体力であり、決定的な制作の理由とはならなかった。
 私が作品を発表し始めてすぐその意味を問われたのは、小品制作の後同じ技法で大きな作品を作った時のことだった。その発表をする時期と父の命の時間が競争になったからだ。命が問われた時、計りにかけられない選択を強いられた。なぜ今作らなければならないのか、これが私のしたいことなのか。自分の存在の重さと無力さを否が応でも感じた。しかし前へ進み自分を確かめ、示すためにはこれより他にできる事はない。長い行き先のない階段を自力で上らなければ何も見えないと思った。
 時間のかかる作業を肉体に課し、生きることを確認する制作が続いた。体力の限界が見え、自分の握りしめていたものと表れたものを振り返り、初めて次の階段を踏むことができた。
 それまで素材を、外との境界である皮膚として、その内にこもっていたのが、その皮膚を通して少しずつ触手を伸ばし、他のものと関連づけられるようになった。そして、作品の中に埋もれていた自分が自由になり、そこに入り込んだ第三者を、あるいは作品に注がれる外的エネルギーを感じとれるようになった。
 そして、今使っている素材全てが子供の頃から日々見て触れていた宝物であったことに気がついた。石は記憶を吸収し、紙は固まることで原形と感覚を呼び起こす。金属はかたまり、被い、繋ぐものとして形と性質を変容させる。初期に使っていた繊維は様々なものを繋ぐ存在となった。
こうして自分のものづくりを考えると五感と、もう一つの感覚と、昆虫のような習性が必要であったことに気づかされた。五感が基本であるならば、そのもう一つの感覚がそれらを繋いでいる。これからも見えていて見えない繋がりと五感や意識に触れるような作品制作に関わってゆきたいと思う。

民具のかご・作品としてのかご(26) 『アシナカ』  高宮紀子

2017-08-08 15:56:53 | 高宮紀子
◆写真1

◆写真 7

◆写真 2

◆写真 3

◆写真 4

◆写真 5

◆写真 6

2006年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 40号に掲載した記事を改めて下記します。


民具のかご・作品としてのかご(26) 『アシナカ』  高宮紀子
 前号ではゾウリには種類がたくさんある、とお話しました。今回もアシナカと呼ばれるゾウリについてです。鼻緒が長すぎて失敗作ですが写真1は最近作ったもの。
足半と書いてアシナカと読みます。普通のワラジやゾウリに比べて長さが短い、というのが一番の特徴です。もう一つの特徴としては芯縄が上に出るというのがありますが、これは後で説明するとして、まず長さのことから。
 普通のゾウリですと足の長さより少し短いか同じぐらいですが、足半は短く、女性用で全体の長さが15cm程しかありません。そうするとかかとの部分は足半にはのらないことになります。そのため足半を履くと、かかとが上がり、自然につま先に力を入れて歩くようになります。農作業などの仕事をするとき、または地面が濡れていたり汚れている所で履くものだそうです。実際履いてみると、つま先に力がこもり、背すじが伸びる気がします。
 このため現代ではダイエットゾウリとして履く人がいます。同じように短めのスリッパがダイエットに効果的とされ売られていますが、元祖はこれ。つま先で歩くために背骨の矯正にもつながる、といわれ健康ゾウリとして愛好者がいるようです。砂利道や舟の上でも実力を発揮するらしく、写真2は多摩川の漁船で使用された足半。緒の部分が長いので足にぴったりしそうです。
 私は造形作品を作っていますが、藁細工の名人に出会ったことがきっかけで、その後も藁細工を続けてきました。藁が手に入りにくい、とか教えてくれる人が高齢で少ないとか、いろいろ問題があるのですが、何かに魅かれて続けてきました。藁細工は知れば知るほど、面白いです。何が面白いかというと、一つの藁という素材をいろいろに活かしてきた昔の人の知恵を感じることができるから。藁が柔らかいため編む技術はいろいろなものが応用できても、藁を束で編む作業は難しいので知恵が必要なんだと思います。いわゆる掌(タナゴコロ)でどうにでもなる、つまり下手上手が出やすい技術です。
 藁細工の技術は藁製品を見ればなんとかわかります。でも作る時の手の力や方向、動かし方や位置は編んでいる時に注意して見なければわかりません。名人ほど手の動きが流れるようにスムーズに連続していて、一つ一つの動きがわかりにくいということがあります。でもその動きの中にコツがあるのです。
 編む時の手の位置を例にあげてみます。写真3,4は足半を編んでいる時の写真です。写真3は左手の指を芯縄の下から出しています。芯縄の間から指を出して編みを押さえながら編みます。名人は芯縄の間から出した指を一本ずつ上げて藁を入れて編むので、左手は芯縄から外れることがありません。でもこれはなかなかむつかしい作業になります。これに比べ、写真4は芯縄の上に右手がきています。指を芯縄に入れるのは同じですが、芯縄をひっぱる力はこの方がよく入るようです。これは柳田利中さんの編む作業を写したものですが、この方が初心者向けだとおっしゃっていました。ただし藁を編む時は、手を外さなければならない、そういう不便さもあります。
 足半をはじめ、ゾウリやワラジは芯縄をぴんと張って編むばかりではありません。時には緩めて編むことも必要になってくる。例えば最初の編み始めの時、(これは後につま先になります。)、芯縄をぴんと張っていると、つま先がとんがってしまいます。そのため、芯縄を緩めて編む、そうすると丸いつま先になるわけです。
 ゾウリの場合は芯縄が裏から表へ出て鼻緒になるのですが、足半の場合、芯縄が上で、そのまま鼻緒になるので丈夫、と言われています。芯縄で鼻緒を作るのですが、緒を固定するため、いろいろな結び方をします。男結び、ハナ結びなどがそうです。写真1はハナ結びと言われるもの。写真5の足半は名人Sさん作ですが、これは違う結び方になっています。Sさんのお母さんがやっていた結びだそうで、この他、ツノ結び(男結びのこと)もあるとのこと。宮崎の方の結ぶ方だと聞きました。
 ゾウリなど、日常生活の中で実際に藁細工でできたものをそのまま使おうとなると、いろいろと不都合がおこる場合があります。絨毯の床では履けないし、藁のゴミも困る。そのためゾウリなどを作って売ってきた人はいろいろと工夫するわけです。例えばいろいろな素材を試したり、形を変えたりして売れるものを探っていく。写真6は秩父でみかけたゾウリです。今までに見たことが無いスリッパ型のものです。麻のロープに布を巻いて編んでいます。足をかける縄は前方の縄と緒が一緒になって、ちょうど一筆がきのようにつながっています。その交差を布で結んでいます。履くと案外足にフィットしてぴたっと固定します。面白いアイデアだなと思って聞くと、去年まで作って持ってきた人なんだけど今年はもう来ないようだ、とのこと。高齢化も藁細工が持つ問題の一面です。
 前号から藁細工が続きました。ここいらで作品を一つ。自分の作品を作るときの方向は藁細工への興味とは別のものだと思っています。用途の有無という違いも大きいのですが、それ以上に方向が違う。写真7は去年作った小作品です。Revolvingのシリーズについて幾度か書きましたが、その一端でできたもの。素材はトレーシングペーパーの厚いものです。この作品はRevolvingのように全体をくるむように組んでいく方法です。1本の材が一周したら、またスタートの所に戻るのではなくて、1本ずつずれて組んでいます。何故、こういう行為になったのかというと、厚いトレーシングペーパーの素材で一周するとその弾力のために跳ねて同じところにおさまらない、そこで1本隣りの材のコースに入るとうまく跳ねないでおさまってくれた。その必要のため、こういう行為になりました。
 Revolvingのシリーズではどちらかというと組み組織の原理を別の形で実現したいと思っているので、素材はそのアイデアを実現できるものを使っています。しかし、この小作品のように、自分の行為と素材が持つ性質が関係して形になる面白さも追求したいことです。このようにちょっとずつ、文字通り、ずれながら次の作品を作っていくわけです。