「生物多様性(喪失)の真実」(ジョン・H・ヴァンダーミーア/ 池澤夏樹 みすず書房)という本がある。
(喪失)としたところに著者か編集者の狙いが感じられ、この書名のつけ方が何かひとくせありそうである。
括弧の部分なしで読めば、生物多様性には多くの人が気づいていない真実が隠されている、となる。
括弧の記号だけをはずすと、生物多様性が失われていくことにはこういう真実がある、と読める。
多くの人は、今の世に何かが失われていく不安を漠然と持っているが、喪失ということの真実を生物の多様性にたとえればこういうことなのだ、とも読める。
とすれば、多様性は生物種の喪失によって顕著になってくる、という逆説も成り立ちそうである。
あるのが当たり前であったことは、それがなくなってくると、あったということがはっきりしてくる。
たとえば空気の存在は酸欠によって再認識され、電気の有用性は停電によって再認識される。
空気や電気は、喪失現象が局所であったり瞬時であったりするから対処もできるが、生物の多様性は喪失に気づいたときは、たぶん手の打ちようのないところまで進んでいるだろう。
著者が何を言いたいのかは、読んでみないとわからない。
平書きでもときどきひっかけられるのに、括弧書きから真実を読むのはまこと難事である。
(喪失)としたところに著者か編集者の狙いが感じられ、この書名のつけ方が何かひとくせありそうである。
括弧の部分なしで読めば、生物多様性には多くの人が気づいていない真実が隠されている、となる。
括弧の記号だけをはずすと、生物多様性が失われていくことにはこういう真実がある、と読める。
多くの人は、今の世に何かが失われていく不安を漠然と持っているが、喪失ということの真実を生物の多様性にたとえればこういうことなのだ、とも読める。
とすれば、多様性は生物種の喪失によって顕著になってくる、という逆説も成り立ちそうである。
あるのが当たり前であったことは、それがなくなってくると、あったということがはっきりしてくる。
たとえば空気の存在は酸欠によって再認識され、電気の有用性は停電によって再認識される。
空気や電気は、喪失現象が局所であったり瞬時であったりするから対処もできるが、生物の多様性は喪失に気づいたときは、たぶん手の打ちようのないところまで進んでいるだろう。
著者が何を言いたいのかは、読んでみないとわからない。
平書きでもときどきひっかけられるのに、括弧書きから真実を読むのはまこと難事である。