・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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言葉の格

2010年06月14日 | Weblog
立場に応じた言葉の使い分けを、本音とたてまえがどうこうなどと言うと、いかにももっともらしく聞こえるが、この考えはあまり立派とは言えない。

たてまえとは立派なものか、総じて立派ではない。
なぜかと言えば、それにはできもしないことが多いから。
では本音は立派なものか、これも総じて立派ではない。
なぜかと言えば、それは愚痴の変形であることが多いから。

立派でないことを対立させてみても、その論法が立派になるものではない。

立場という言葉も、たてまえという考え方の近辺にある。
「俺の立場は・・・」などと言っても、自分を指しているわけではなく、自分がいる場を指しているので、自分そのもののことではない。
立場はというのは、自分という一個の人格の外側にある。

政治家を例にとってみても、党として、党首として、大臣として、個人の見解でなどと、めまぐるしい使い分け、言い分けが用意されている。
この言い分けが、言い訳代わりに使われることもある。
大臣でいるときは党を一時離脱しているなどと、アニメ型変身術が持ち出される。
こうなるともう立場分裂症状である。

つまり立場というのは人格が失われた概念なのである。
何かの場合に、立場を重んじた扱いをされても、そのひとの殻の部分がだいじにされただけで、その人の人格が重く見られたことにはならない。

たてまえも立場も、ある場合には一見立派でも、ちょっとしゃれた服を着ているぐらいのことでしかないのだ。
そのうえ腹の中に愚痴のかたまりを溜めていたのでは、どうみても立派とはいえないだろう。