・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
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もともとはずれるのが的だった

2014年06月04日 | つぶやきの壺焼

「的な」、「的な」。
こんな会話がCMにあらわれるほど、「的」という言葉が、どういうわけか好まれて使われます。
「的」、テキはマトですから、何かにあてはまるという表現にはピッタリなのですが、実際にははずれのほうが多いのが「的」であるようです。

「的」が熟語に組み込まれると、不思議に、にんにくのようなものに変わり、メタモルワードの様相を呈します。
その熟語を口にする人にはわからない、嫌なにおいがする言葉になるのです。

例を挙げてみましょう。
「具体的」「建設的」「進歩的」は、ズッコケ三的とでも名づけたいその代表格です。

「具体的」は、抽象表現を理解できないガチ石あたまの人が、聞いてもわからない説明を求めるときの台詞です。
「ぐたいてきに説明してください」を耳にすると、「愚態的」と聞こえることもあります。

「建設的」は、たとえば、浅い考えさえなく何かを言ってしまって説明を求められたとき、「建設的な意見を出してください」と、その場を逃れる狡猾な言葉です。
なぜ逃れたいのか、それは多分、説明の要求を、批判されていると感じる被害者意識からなのでしょう。
その場に出来かかった意見交換環境は、建設的どころか、壊れてお終いにされてしまいます。

「進歩的」は、何かにつけて進歩が疎んじられるようになった近ごろでは、あまり聞かれなくなりましたが、政党の名前にも「進歩」が用いられた時代もありました。
「進歩」という状況表現を、目的表現にすりかえて「的」と組み合わせた奇妙な言葉です。


「私的には」という変な言葉もときどき聞こえてきます。
「私はこう思う」とはっきり言いたくないとき、私ではなく私の代わりの誰かが私の思いを伝えようとしていて、それによれば、というはなはだ回りくどい言い方です。
これが、デジタル信号のように、いくら回りくどくても伝達時間は縮まっているのが面白いところです。

こう並べてみて、「的」は、ど真ん中よりも中心をずれたところに意味のありそうな言葉だったことに気付きました。
「的」の全体を見れば、中心からずれた周囲の面積に比べ、中心部の面積はごくごくわずかでしかないのでした。

この戯文の表題も「もともと はずれるのが的」と、「もともとは ずれるのが的」のどちらにずれてもかまわないのです。

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