説明責任という厄介なことがらがある。
求められた人は、説明を求める人が納得するように、話を繰り広げて見せなければならないという、随分いい加減な責任追及様式である。
聞く人が理解するかどうかではなく、納得するかどうかが要求の根源だから、ねじ曲がった頭、しかも智の薄い頭の持ち主の場合には、その人が気に入るような言葉が引き出されなければ、要求を満たすには至らない。
構えたキャッチャーミットのその位置へ、するっと収まるような球が来なければ、説明責任を果たすことができない。
気に入る言葉はただ一つ、それを見つけ出せなければ、多くの言葉は無用になるのだ。