・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

道:2

2011年06月15日 | つぶやきの壺焼

畑の耕作面と畔の間に道界杭が立っている。
「ここはおらが畑」「ここまでは道路」との双方の言い分のさかい目である。

畑地と路面には段差があって、畔の構造をこれまでどおりにしておくには、ちょうど歩道の幅ぐらい畑地に食い込む。農家の古老は、飛んでもねえと頑張る。
道路管理者側は、車両交通に支障がなければ、とりあえず道界だけはっきりさせておくより仕方がなかろうといったん目をつぶる。
どうなっているのかなどと、通行人が訊ねる筋合もないから想像でしかないが、まずこういう状況なのだろう。

空地でも、永い間人が通っていると、そこが道になる。道というものはそんなものらしい。
では、道であるはずの土地は、人が通らずに永い間経つとどうなるのだろうか。
境界が先にあって、それを越えて使えば不法占拠だと素人でも思うが、使っていた土地に、後から境界線が敷かれた場合はどうなるのだろうか。

ちょっとした畑と道路の関係でもややこしいのに、津波の災害地では、この先どんな厄介なことが待っているのか。
暮らしのことさえはっきりしてもらえないのに、それにまた環境整備区域とか放射線危険区域とかの難問までかぶせられたのでは、本当にたまったものではないだろうと思う。


2011年06月14日 | つぶやきの壺焼

道が広がる。
車道の幅は拡げないだろう。
曲線の外側なら「広がる」のだが、内側では「狭まる」のではないかなどと、またつまらないことを考える。

広がるのは視界だ。
なんでもいい、見通しがよくなれば。
逃亡者には不都合だが、それはごく少数のことだから。
逃亡者には都合を述べるジンケンはない、ということにすれば、道が広がるのは、とにかく良いことに違いない。


用水

2011年06月13日 | つぶやきの壺焼

畑地のあちこちに水を補給できる設備がある。
井戸があって水を汲むのではないから、水汲み場でもなし、何と呼ぶのだろう。

かたく言えば、農業用水か。
だがそれは水の使いみちのことだから、と考え始めると、答えが出てこない。

みず場、通じるだろうか。


疲労破壊

2011年06月12日 | つぶやきの壺焼

メモ用紙を挟んであったクリップが、何か指に引っかかると思ったら、目玉の手、変な表現だが、開くときに指で押さえる穴の開いた把手の部分、こういうのは写真が早い、「ほれソコ」が割れていた。

バネがききっ放しで、プラスチックの厚みに勝ち、押しちぎってしまったのだ。
ちぎる場合は普通引きちぎると言うのだが、力の方向が反対で、これは押しちぎれたかたち。
造った人は、こんな壊れ方をしようとは考えなかったであろう。
薄鉄板をプレスで打ち抜いて造っていたのを、成形プラスチックでこれは安くできたと思ったに違いない。

壊れたらまた買うだろう。こういう造り方が、文具から日用品へ、日用品から器具へ、機械へ、装置へとだんだん浸透していくと、人の命を奪うようなことも起きてくる。
経済性というのは、それだけにとらわれやすい、まことに困った概念なのだ、いや執念かもしれない。


デカルコ:2

2011年06月11日 | つぶやきの壺焼

作ったデカルコを写真に撮ると、画像がぼやけている。焦点が合っていないのだ。
なぜだろうと思っていたが、2枚目で理由に感づいた。

コンデジの自動焦点は、対象物を見つけてそこに合わせる。
焦点を合わせ損ねたのは、狙っている画面の中に対象物が見つからなかったからではないか。
2枚目のこれは、ガラスの上面に映り込んだ窓に焦点が合っている。
そのため、肝心のデカルコの面はピンボケそのものになったのだ。

しかし、なんとなく奇妙なこの画像も、うまく使えば面白いものができるかもしれない。
反射像に何をもってくるか、あるいは反射させない方法はないかなど、当分楽しめそうである。


デカルコ

2011年06月10日 | つぶやきの壺焼

白い板に絵具を垂らしてガラス板を載せると見たこともない模様ができる。
デカルコマニー、略称デカルコという画法である。
あたまより手が先という者には、出たら絵のような面白くて楽ちんな技法だ。

はじめは近めの色で二色、追々に試してみようと思う。


2011年06月09日 | つぶやきの壺焼

「写真撮ったのか」「はい撮りました」
ポピーの写真を撮るからと、車から降ろしてもらったのは数週間前のこと。
「撮りました」だけでは、やはり話にならないから、あらためて載せることにする。

こうしてみると、花の写真は後出しがよい。
先に出すのは前の年のしかないはずで論外だが、今咲いていますというのは、行って見るのにはかなわない。花はライブ。
ときには行って見てがっかりということもあるけれど。
いずれにせよ、いま咲いている花は写真を見せないほうがよい。
時季を過ぎれば、来年にのぞみができる。

赤い花の向こうには赤いもの、これも一つの手か。
よくみればただ赤く群れて咲くつまらない花にも、いくらか興が添えられる。
花壇のデザイナーが、目のくらくらするような、あまり品の良くない赤一色にしぼった意図も、汲み取ったつもりにこれでなれる。


配色

2011年06月08日 | つぶやきの壺焼

駅の階段の途中で立ち止まる。
どうでもよいことが目に付いたから。

2段構造の手すりか、車いす用のガイドレールか、よくわからないが、もうエレベーターができているから、いまは手すりなのだろう。
手すりなら1段でよい。下段はこども用のつもりか。

こどもに手すりなど使わせているようでは先が思いやられる。
こどもは、転げ落ちないように、すぐ下にいて注意を怠らなければよいのだ。
階段で手すりなど使わせていると、どこにでもつかまりたがる子になってしまう。

2本のパイプの色がなぜ違うのか。
デザイナーは気分で仕事をするから、「なぜ」はないのだが。
ははぁ、この色を決めたときは、あまりいい気分ではなかったのか。


おどろいたかい

2011年06月07日 | つぶやきの壺焼

おどろいたかい、漢字で書けば、驚いた貝。

くだらない洒落だが、根は深刻。

貝殻の模様をこれほどまでに変えさせるような、3月前のあれは椿事だったのだ。
ネットのニュース写真、こればかりは見せなければものの言いようがないのでそのまま使わせていただいた。

哺乳類は、環境激変の影響をその世代のうちにこれほどまでに表現するすべを持たない。

これを見てもうひとつわかったことがある。
貝の殻はふちに新しい組織を増やしながら大きくなっていくのもなのだ。

わからないこともひとつ。
蝶番側の古い組織は、大きさがそのままということはないにしても、一生持ち続けられるのだろうか。


会話

2011年06月06日 | つぶやきの壺焼

畑の向こうの隅と隅で何か話しているがこちらには聞こえない。
もうそろそろ遠くなっているのではないかなど、余計な推察は無用、当人同士話が通じていれば、それが会話。

会話には、ちょどよい距離がある。
目に前に相手の目があっては、話が詰まることもある。
相手の目をじっと見ないと話したことにならないお国柄も、どこかにはあるようだが、日本語は、顔つき目つきは直接見なくても、帰ってくる返事で察しがつく。

日本語を勉強中の人は、一語一語の意味を理解できないと、言っていることがわからないという。
感覚は説明しようのないもの、「意味は」「正しいのか」とバラバラに突き詰めても、言葉は通じない。

そうか、5メートル会話という方法も、言葉の勉強にはなるかもしれない。


足りない

2011年06月05日 | つぶやきの壺焼

横浜の「みなとみらい」に何か足りないものは、という話をラジオで聞いたので、さてなんだろうと考えてみる。

ラジオでは「みどり」が足りないと言っていたが、ここはひとつ例の「知恵袋」のお世話になろうかと質問を出しておいたら、二つだけ返事が来た。なんだ二つだけか、二つ返事の洒落にもならないと思ったが、二つとも真面目なお答えなのである。
1.津波対策
2.スーパーと文房具屋

はじめの津波対策、これは確かにそうだが、横浜港を津波から護りきるには東京湾口にウルトラスーパー堤防と超大水門が必要になり、東京湾は泥海になっていくだろう。

次のスーパーは、かの有名な「成城石井」が「ランドマーク」に入っているのにお気づきでなかったらしい。
文房具は、ちょっとした紙やペンぐらいならどこにでもありそうだし、それ以外の文房具ならわざわざみなとみらいで買わなくてもよいだろう。

「何か足りないものは」という問いかけがまずかった。「もの」と言ってしまうと「物品」のこと、それを売っている店のことを考えるから。
『ひとつだけ「みどりの風」を思いつきましたが、ほかに何かありませんか。』
質問にはソフトな答えがほしくてこう書き添えておいたのだが、いただいた答えはハードのみ。やはりくどくど書かないと意図は通じないか。

つかまえどころは、やはり空気がどうかだろう。それには行ってみるしかない。
天気の良いとき、空気を味わいに行ってみようか。
ゴールは新高島駅近くのあの店で、ゴルゴントーストにグラスワインなら、ワンコインでOKだ。


使いみち

2011年06月03日 | つぶやきの壺焼

道具を作り、そして使う、人間の知恵。
知恵の働きは、さらに使い方に現れる。

しかし、その働きが強すぎると、行き過ぎも起こる。
回転椅子を踏み台代わりにする、プライヤーをハンマー代わりにする、爪楊枝を耳かき代わりにする、目の前にあるものを本来の用途以外に使うと何か不都合が起こる。

代わりの使いみちではなく、多用途利用というのもある。
いったん代わりの使いみちを見つけたこのコンテナーも、畑に居座ったからには、まだ他の仕事もやってくれそうだ。


道具

2011年06月02日 | つぶやきの壺焼

人間が他の動物より優れていると、自分で思っているのは「道具を作って使う」ということだろう。

道具には、持っていることが自慢のたねになる道具と、仕事をしやすくするための道具がある。

農作物を畑から運び出すとき、穀類の場合は田畑の端から一斉に収穫してしまうが、野菜は売りごろ食べごろのものから順番ということになる。
担いだり放り投げたりせずに、なるべくたくさんのものを一度に運びたい。
そう思った人が、仕事のために作ったものだが、これは多分、自慢の種にもなっているだろう。


詰まる

2011年06月01日 | つぶやきの壺焼

いま、映画を立って観る人はいない。

半世紀前は、座って観られる映画にたいしたものはなかった。
出来が悪ければ観客が寄りつず、空いていたから。

海岸に置かれているこんなものを見て、全然関係がないのに昔の映画館を思い出した。