通りすがりにこの木を見たとき、あの歌を思い出した。
粋な黒塀、見越しの松に・・・
だが、この木に似た姿の松は、見越しの松ではなく門被りの松だ。
なぜこれを見て見越しを想像したのか。
門被りのかたちが、手をかざして遠くを眺める姿にどこか似ているせいかもしれない。
立派な門被りのある門らしい門も、近頃見る機会がなくなった。
見越しの松も、門被りの松も、ほかの国にはまったくないだろう。
そういう門や塀をお持ちの方は、ぜひだいじにしてほしい。
通りすがりにこの木を見たとき、あの歌を思い出した。
粋な黒塀、見越しの松に・・・
だが、この木に似た姿の松は、見越しの松ではなく門被りの松だ。
なぜこれを見て見越しを想像したのか。
門被りのかたちが、手をかざして遠くを眺める姿にどこか似ているせいかもしれない。
立派な門被りのある門らしい門も、近頃見る機会がなくなった。
見越しの松も、門被りの松も、ほかの国にはまったくないだろう。
そういう門や塀をお持ちの方は、ぜひだいじにしてほしい。
たちあがれ日本という奇妙な名の政党がある。
名前はもっともらしいが綱領さえない政党もある。
活動がまともで名前が奇妙なのと、名前がもっともらしくて活動がいい加減なのと、活動の状況もよくわからないのと、どういう政党をよいとするか。
畑の大根たちには、呼び名はあるが組織名はない。
種類が別で、三浦大根とは形の違うものが、三浦大根と呼ばれて売り場に並ぶこともある。
それは大根が名乗ったのではない。ちょっとせこい人間がそう呼んでしまったのだ。
青首大根は、地中に根が伸びていって、その先が耕されてないか、あるいは土の成分が違うか、そういうところをみつけると、伸びる方向を180度転換するのだろうか。
根は地中でなくても伸びられることを証明してやろうと言わんばかりに立ち上がる。
立ち上がれと言われなくても、立ち上がる。
そのときに根の上半分は、根の役を終えて幹になり、地中の水分養分をぐんぐん吸い上げる。
やがて抜き取られて、市場に出て行くとき、少しでもよい値が付くように。
看板には、デザインされたものとされないものがる。
と書いてはみたが、これは少し怪しい。いや、だいぶ怪しいかもしれない。
デザインは考えたすえのこと、あるいは考えることそのものだから、「考える」という頭の働きがまとわりつく。
修正しよう。看板には、デザイナーがデザインしたものと、素人がデザインしたものがある。
としてみたが、これでもまだ怪しい。
デザイナーとそうでない人を区別する境界がはっきりしないところが怪しい。
プロとアマという区別はあっても、それは金銭のやり取りの区別であって、デザインの質に直接関係はない。デザインの収入が多ければ優れたデザイナーであるとも言えない。
看板で言えば、その前を通る人がどのくらい目を向けたか、看板が招いたところに足を向けた人がどれくらいかということだろうか。
デザインを意識すると、できたものの面白みが減るというところが、悩みどころでもあって、考えはじめると、看板というものはなかなかの難物なのである。
「なつかし」では変換されないMS-IME、「なつかしい」で変換して「い」を消すと「懐かし」となる。
行って戻る。この行為は、便利さ早さのほかに何か意味がありそうにも思う。
戻って見る懐古、そうだ何年か前に復古調という言葉がはやった。
何でも新しいことがよいとされ、昔を懐かしんだ作品などをばかにした言葉だった。
大災害から半年以上も経ってから漸く復興庁と名づける機関ができた。
いまごろになって電光石化というから恐れ入る。瞬間の光を見せるだけという意味なのか。
名称の音が復古調に似ていて、不謹慎のそしりを免れないが、どこかおかしい。
復古調といえば、歌声と掛け声もどこか似たところがありそう。
若い人のいまの歌は節も言葉もわからないから、年寄りは昔の歌を唄えるところに集まる。
背を丸め、しわがれ声をしぼり出して唄う。
♪ 若く明るい歌声に・・・
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
小学校の国語教科書にあった一茶の句、どこまでかな書きだったか、どういうかなだったかは覚えていない。
昔の馬は雀を追いやって通ったが、今の馬は車が来ても除けずにすむよう、あらかじめ左端いっぱいに寄って歩いている。
街の裏道、砂浜で、このゆっくりと歩く姿をときどき見かける。
見ているだけでも、なかなかよいものである。
いつだったか、馬上の婦人に声をかけたら、鸚鵡返しに「はい、気持ちいいです」と涼しそうな顔を見せてくれた。
涼しそうな、そう、あれは去年の夏だったか。
相談に見えた方から、手作りの竹トンボを頂戴した。
海岸に孫を誘ったら、小学生はついてきたが中学生は来ない。
2~3度でコツを覚え、夢中になるとなかなかやめない。
帰りに菓子を買いに寄ったが、兄貴の好きなのを選び、自分もそれを食べるからそれだけでいいと言う。
家ではわがままなくせに、外では遠慮深くなるのがおかしい。
爺がRでなくPマーク付きであることを知っているらしい。
なりすましは罪深い。
ものまねは善、なりすましは悪である。
ものまねは、ホンモノとは違うことをはじめからはっきりさせているが、なりすましはホンモノでないことがわからないようにしているからだ。
振り込め詐欺もなりすましの一種、民族の名を騙るのもなりすましの一種である。
ネコ君が他国の国籍を取得してオリンピックに出ようというのは、違うことがはっきりしているからものまねの部類で、お愛嬌と言えるだろう。
そこに住んでもいない人が、一国のある地方に別の民族がいることを喧伝し、その一員であるかのように振る舞い、差別を受けているかのような振りをする。
これはあきらかになりすましで、悪行なのである。
さらにその行為によって、公益を装った事業を営むに至っては、悪業としか言いようがない。
言われたこと、書かれたものを、まっすぐそのまま受け取らせるのが、教育の現場に望ましいことであるから、もしそこになりすましが入り込んできたら、何十年か先に、困ったことの種が芽を吹き出す。空恐ろしいことなのだ。
門戸開放という元気のよさそうな、さあいらっしゃいという呼び声がある。
入口があまりに堂々と開いていると、踏み込んでみようかという気はそがれる。
入ってきたらどういう目に遭うか、やってみてのお楽しみと構えてしまえば、案外盗人はやってこない。
ただ、それにはそれなりの智慧と気構えが必要で、構えも頭もない雇われ家主では、結果は目に見えている。
たとえ雇ったほうに見込み違いはあっても、雇われ家主が雇い主に泣きを入れたり、何もせずに言い訳だけ並べていてはいけないのだ。
浜辺の漂着物は、いろいろなものを抱え込んでいる。
まったく役立たずのものを抱え込んでいるかというと、そうでもなさそうにも思える。
ことによると、浮きの役目をしていたかもしれない。
これはよし、それはだめと、選り好みをするのではなく、ごく自然に寄って固まったのだろう。
ものでも人でも、結びつきというものは、時間の流れの中で、自然に生まれたものほど強いのではないか。
自分で撮ってきた写真の始末に迷うことがある。
撮るときに腹が決まっていないからそうなる。
そのとき決断を鈍らせるのは、あとでトリミングができるからという安易な思いである。
いらないものは写さない。
それが撮影時のフレーミングの決め手で、他には何もないのだが。
この写真、バックの立ち木の向こうに道があって、そこから降りて撮った。
わざわざというほどのことでもなかった。
道でないところに少し踏み込んで降りてきただけのこと。それが引っ掛かってか、立ち木を入れてしまった。
当然画面は散漫になる。
それでも、散漫さが画面の空気感を助けることもある、そこが迷いの因。
さて、この場合上を切るか切らないか。どちらがよいのだろう。未だに決まらない。
優柔不断の見本写真。
一人ひとりがそれぞれに、この世を、あるいは過ぎた世を、どう思おうと構わないと、自由を尊ぶ人は考える。
しかし、そのあたりにも問題がないわけではなさそうである。
千人万人のうちの一人なら、と思っているうちに、奇妙な知識を刷り込まれた人々が寄り集まって、知識の滓のようなものが溜まっていくと、やがてその国にはろくなことが起こらないようになる。
自虐史観という、誰もを幸せにしない世の見方がある。
国営の、あるいは公営の博物館や資料館という名の場所で、立派な建物の中に、自虐史観のもとに企画された偏向展示があったとする。それらは、何かにつけて下向きの、いじけた心根を人々に植えつけ、自分が生まれた国を敵と思うようになっていく。
全国に広がる大きな組織がそれを企画したとなれば、まことに罪深いことである。
○○展という催しでも、常設の展示でも、資料の展示がどのような史観のもとに公開されているのか、表現の自由の裏側にあることを、壁面に掲げられたものと一緒に読み取る努力を惜しむわけにはいかないだろう。
ちなみに、千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館には、相当怪しげな展示物があると聞いている。
施設の名に冠された国立という字は、何を意味するのだろうか。
MLに書くこのブログの案内に、「諸景雑記ブログ」という総括名を付けた。
総括名とは、いかにもえらそうな名前だが、平たく言えば、ひっくるめてどう呼ぶかということ。
長くならないように言を縮めると、意味は変わらずに変容するのが日本語の奇妙なところ。
はじめは「雑記ブログ」だけだった。一行しか書かなくても、雑記ならばと、いかにも軽々しい構えだったが、文字だけでは雑記とも呼べないときがある。
そういうときは下手な写真を添えて、というより写真と組み合わせて載せることにしている。
ご覧くださる方には、何だ今日のはずいぶん手抜きだなあと思われることもあるだろう。
その日は、滓ばかりののあたまを寒干し野ざらしにしているのだと思っていただこうと、思っている。
さて、あたまにつけたのは「諸景」。こんな熟語はないだろうから、ひとこと説明しておくことにしよう。
「雑写」「諸写」などいろいろ考えたが、「雑記」は自分の書くものだからよいとしても、写真はすでにそこにあるものを写させていただくので「雑写」では失礼に当たる。
雑はよくないかえら諸にしよう。しかし「諸写」では何かぴったりこない。
それなら「諸景」か、ということで「諸景雑記ブログ」ということにした。
名前の説明というものは、およそつまらないもので、話の種にされても説明するほうがしらけてしまうから面白いはずがない。なんともごたいくつさま。
ゴチャゴチャの政界に、またまた新党が生まれようとしているが、むやみに群れると力の殺ぎ合いになる。名前に凝るよりも、政党としてやることをしっかりやってほしい。
適材適所という言葉が、人事のあとでしばしば使われる。
人が材料同様に扱われるようにも聞こえ、間に合わせで据えたことへの言い訳にも聞こえるので、気分のよい言葉ではない。
文化にも適所がある。
生まれる場所と生まれない場所がある。
芽を吹く雰囲気と、根付かせる土壌のないところに、文化は生まれない。
N町あたりは、文化の生まれ難いところ。
「明日の自分のためだけが今日することの精一杯」という人々が寄り集まって、わいわい言っている雰囲気で、ドジョウなど思いつきの文句でしかない場所では、文化の解体作業しかできないだろう。