あんなに夢中になったことでさえ、醒めてしまえばどうよ?
辛くて堪らなく切なかったことが、何事も無く水洗トイレのように綺麗さっぱり流れてしまうんはなんでさ?
時は流れる。時間という喪失プログラム。かなり有効な薬効だ。
「時は私にめまいだけを残していく」と小椋圭さんは歌ってはったなぁ。
時は流れる。時間という生育プログラム。かなり有効なビジョンだ。
「時の過ぎ行くままにこの身を任せ」とジュリーさんは歌ってはったなぁ。
・・・。
ゼリーは本当にゼリーなのか?
甘ったるいだけの西洋式トコロテンではないか。
現実と夢想との差はなんだろう。
私はゼリーなんぞは口にしないからゼリーは実在しない。あっても無いのである。
トコロテンは実在するけれども、ゼリーはトコロテンではないから、私にとっては、無いものがあるのである。
・・・。
河童は夢想の産物で現実にはいない。とはいえない。
日本全国に河童伝説は存在する。
「しばてん」「えんこう」等等、呼び方は様々だが、プロトタイプはほぼ同じ。
人が何らかの意図を持って作り出したとしても、その姿は具現化され親しまれ、我々の認知の中に存在している。
意識しているということだけで、とりもなおさずありもしないことではなくなる。
それが現実か、夢想かは、意識下の問題でしかない。
忘れてしまう前の苦悩や、出会う喜びまでの不安と同じこと。
あればある。なければない。
道端の2体の河童の石像の現実のたたずまいが、そんなことを夢想させる。
私は強く惹かれた。うつつであった。
ただそのときに私がどんな気持ちを抱いてカメラに収めたかについて、夢のような確信が今はもうない。
ゆめうつつ。
・・・。
ウォントビーロング。
・・・。