恥の多い人生を歩んでおります。
忍びきれない恥は偲びきれなくあったように思えます。
それでも、そのときにはそうさざるを得なかったと思えるように思うしか、今となってはございません。
若さというものの悩みは果てなく、老いというものの悩みは限りなく、髪の毛が長かろうが、禿であろうが、肉体が勇ましかろうが、枯れようが、酒が強かろうが、弱ろうが、それとなく偲び忍ばれる物事にめぐり合うのでございます。
それはそうと、記憶の許容量というものはどれほどあろうかと、思う今日この頃でありまして。
割合に大きかったり、小さかったりと思うのは何ゆえのことであろうかと。
経験したことが、思い出せないというような病もあるように聞き及んでおります。
おなじ間違いを何度となく起こさずにはいられないどうしようもないことについては、どうもそれは、反省が足りないというよりも、もっと深いところの問題、つまり間違いだとは思わないような性、己の人間的本質に根ざしているようにも思えるのでございます。
致し方ない。許そう。
と思えたり、思えていただいたりしながら、なんとか歩み続けているようでもございます。
楽しかりし記憶や、痛恥ずかしき記憶が、不意と頭をよぎることが、何ゆえの出来事に関連付けられておることか、ままならないのでございます。
同じことは2度とは起こらない。とはいうものの、3回回ってワンというように、重なったなにかで見開かれる結果もあるように思われます。
昨日のわや。が今日はくちゃ。明日がわやくちゃ。
昨日がしどろ。で今日がもどろ。明日はしどろもどろ。
昨日でうおう。今日でざおう。明日でうおうざおう。
ツービー オアー ノット ツービー ザッツ ア クエスチョン
行うべきや 行わざるべきや そこが問題だ。
以前に今にその後。
わたくしの記憶は、どのような答えを用意するのでありましょう。
思えば、それにしたがって生きていくより致し方もないようでございます。
メモリー。なんと頼りなくも甘美な存在でありますことやら。
あらあら。おやまあ。かしこ。