ムクドリなどの集団は、魚類でいう鰯の群(むれ)宜しく、画一された群の行動をとる。
一方ウミネコなどは、群は餌事行動や移動などの際に便宜的に作られるが、群化は利用価値があるときに形成され、群れることそのものが絶対条件ではないように見受けられる。
どちらにしても、「生き延びる」事に対し、固体としても群としても、その選択が利益になるからだろう。
高度な社会性を持つ人間社会では、「群れる」ことと「個」というものの関連性においての「生き延びるための利益」はより複雑になる。
「個」の「群れ方」は、刻々日々環境次第で、無限とも思える未知の関連形態が生じる。
本能だけでは、「生き延びられない」社会を作り上げているようだ。
つまり動植物のように、長い時間をかけたなだらかな進化適応ではなく、「瞬時に小さな進化を繰り返す」脳内活動や心的活動を求められるといえる。
多様な群を横断しながら、離合集散を繰り返し、個の進化によって、よりよい一翼を担いながら、自己を確保する。
そんな高度な社会性を人は持ってきた。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会といった縦罫の一群があり、同じクラブ、同じ職場、同じサークル、同じ会社、同じ地域などの横罫の一群がある。
その全ての一群の本質は、流動的かつ常に可変性を持っている。
ここでは成績、学位、肩書き、単位、卒業証書などの、過去の事跡はあまり意味を持たない。
今の「進化」によって個を担保する力場だからだ。
知恵、理解力、よい判断力、よい嗜好といったものを担保し、
たくましく、自尊心があり、正しい怒りを持ち、支配や搾取、宣伝やわけのわからない文明化、暗示や流行に対して抵抗力のある者になるような力が試される場となる。
このような人間社会の複雑性は、本能や自覚によって芽生える種類のものではなく、教育的な伝達を通じて、学ばねばならない種類のものだ。
複雑な社会集団のなかで、自由に飛びまわろうと志せば、それ相応の必要な進化を遂げなければいけない。
そこのところは、なんとなくわかってきた。
しかし、子を持つ親の立場からしても思うのは、
それにしても、わからないのは、その伝え方の正しさ。
自分の伝えられること一つをとっても、こんなに難しいと思わせられるとは。
う~ん。だからしてなかなか面白い世の中ともいえそうだが。