(版画/前川千帆)
昭和20年、人々には糖分が絶対的に不足していたその時の発刊である「偲糖帖」にはこう書かれています。
‘昔狐にだまされた男が 馬の糞を牡丹餅だとおもって食った という話がある
たとえ一時の迷いでも とにかく牡丹餅を食った男の心境 むしろ羨んでしかるべし だとおもう・・’
そして、これでもかこれでもかと執念の如く、世の中の甘いものというものが書き綴られています。
戦時も戦後も当時の人々は生と死を常時身近に体感していたことでしょう。
歌人の岡野弘彦氏は「冬の家族」所収で、
‘辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか’
と詠み、
同じく歌人の雨宮雅子氏は「雲の午後」所収で、
‘生き残る必死と死にてゆく必死そのはざまにも米を磨ぎゐつ’
と詠みました。
毎夏ながらそぞろ覚ゆる今日この頃であります。
昭和20年、人々には糖分が絶対的に不足していたその時の発刊である「偲糖帖」にはこう書かれています。
‘昔狐にだまされた男が 馬の糞を牡丹餅だとおもって食った という話がある
たとえ一時の迷いでも とにかく牡丹餅を食った男の心境 むしろ羨んでしかるべし だとおもう・・’
そして、これでもかこれでもかと執念の如く、世の中の甘いものというものが書き綴られています。
戦時も戦後も当時の人々は生と死を常時身近に体感していたことでしょう。
歌人の岡野弘彦氏は「冬の家族」所収で、
‘辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか’
と詠み、
同じく歌人の雨宮雅子氏は「雲の午後」所収で、
‘生き残る必死と死にてゆく必死そのはざまにも米を磨ぎゐつ’
と詠みました。
毎夏ながらそぞろ覚ゆる今日この頃であります。