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“そうでしたか?もう70年も経ちましたか。
1945年8月15日の数か月前にドイツが降伏して、ヨーロッパにおける戦争が終戦になった時には、人々は道に溢れ出て、踊ったり歌ったりの大騒ぎだった。ところが、日本との戦争が終わった8月15日は、様子がだいぶ違う。
ドイツとの戦争が終わった時には、みなが大いに楽観的になった。もう戦争はない、平和の時代がいよいよ来るのではないかと。そして実際に後にEUの土台がしかれ、ヨーロッパでは戦争がなくなる見込みが出来た。
ところが日本の場合には、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、いよいよ日本がポツダム宣言を受け入れて降参した15日は、少し拍子抜けだった。しかしそれよりも、戦争の終る終わり方が、多くの人にとって後味が悪かった。広島、長崎で何十万人を殺す必要は果たしてあったか、と私も含めて多くの人が考えていた。
「原子爆弾という恐ろしい武器を開発した」ということを日本人に知らせるために、人影のない富士山のてっぺんにでも一つ爆発させれば十分だったのに、なにも二つも大都会を破壊する必要はなかったと。
日本の降参はたしかに大事件だったが、人類史が原子爆弾の時代に入ったということが、より大事件だったのである。そのような歴史的転換の後でどうすればいいのかということが、最も注意を引く問題となった。
ソ連も原爆、水爆を発明して冷戦状態になったのは、4、5年後のことだった。それまでは英米がその5年間の原爆独占を利用して、スターリン政権を倒して、ロシアをも自由世界に無理に引き込むべきだったと考える人もかなりいた。それを真正面から唱えた有名な人物が、バートランド・ラッセルという哲学者だった。
そう言うと、1950年以後、平和運動の有名な指導者となったラッセルしか覚えていない人が驚くだろうが、ラッセルはあくまでも理知的な思考を感情に優先させていた。将来的に考えれば、原子力の独占を利用して、スターリン体制を倒すのが明らかに合理的であったのに、「原爆を使ったのが後味が悪かった」という一般の感情が、それを受け入れなかった。結果的に、スターリン体制に原水爆の開発に十分な時間の余裕が与えられてしまった。
そのあいだ、戦勝者の英米側は、なるべく自分たちが覇権を維持できるように、国連という組織をつくった。第一次世界大戦後につくられた国際連盟は、明らかに二重の性格を持った。平和維持の機関、仲裁や介入によって紛争を防ぐ機関であった一方で、むしろそれよりも、戦争を起こしたドイツを罰するという性格のものだった。
第二次世界大戦後の国連は、さほど露骨なものではなかったが、それでも、「戦勝国の国連」であった。国連憲章そのものに、ドイツと日本が簡単に「敵国」と明記されている。両軍が国連の加盟国になった60年代でも、憲章の「敵国」条項は修正されなった。
国際平和を保障する機関を作る第3回目の機会は、冷戦の崩壊の後だが、ソ連崩壊後にできたエリツィン時代のロシアは、ますます腐敗にふけり、国際的に建設的な機能を果たす国ではなくなった。プーチン政権下になり、腐敗の度合いが減ってロシア外交の積極性をかなり取り戻したが、もう遅い。新しい冷戦体制がすでに確立されていた。
究極的に、長期的により決定的となった米中冷戦が、ますます国際政治の枢軸となった。”
-切抜/ロナルド・フィリップ・ドーア(イギリスの社会学者、1925年生)「戦後70年に、憶う」‘今我々は、次世代の人々に何を伝え、何を残せるのか’より-
“そうでしたか?もう70年も経ちましたか。
1945年8月15日の数か月前にドイツが降伏して、ヨーロッパにおける戦争が終戦になった時には、人々は道に溢れ出て、踊ったり歌ったりの大騒ぎだった。ところが、日本との戦争が終わった8月15日は、様子がだいぶ違う。
ドイツとの戦争が終わった時には、みなが大いに楽観的になった。もう戦争はない、平和の時代がいよいよ来るのではないかと。そして実際に後にEUの土台がしかれ、ヨーロッパでは戦争がなくなる見込みが出来た。
ところが日本の場合には、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、いよいよ日本がポツダム宣言を受け入れて降参した15日は、少し拍子抜けだった。しかしそれよりも、戦争の終る終わり方が、多くの人にとって後味が悪かった。広島、長崎で何十万人を殺す必要は果たしてあったか、と私も含めて多くの人が考えていた。
「原子爆弾という恐ろしい武器を開発した」ということを日本人に知らせるために、人影のない富士山のてっぺんにでも一つ爆発させれば十分だったのに、なにも二つも大都会を破壊する必要はなかったと。
日本の降参はたしかに大事件だったが、人類史が原子爆弾の時代に入ったということが、より大事件だったのである。そのような歴史的転換の後でどうすればいいのかということが、最も注意を引く問題となった。
ソ連も原爆、水爆を発明して冷戦状態になったのは、4、5年後のことだった。それまでは英米がその5年間の原爆独占を利用して、スターリン政権を倒して、ロシアをも自由世界に無理に引き込むべきだったと考える人もかなりいた。それを真正面から唱えた有名な人物が、バートランド・ラッセルという哲学者だった。
そう言うと、1950年以後、平和運動の有名な指導者となったラッセルしか覚えていない人が驚くだろうが、ラッセルはあくまでも理知的な思考を感情に優先させていた。将来的に考えれば、原子力の独占を利用して、スターリン体制を倒すのが明らかに合理的であったのに、「原爆を使ったのが後味が悪かった」という一般の感情が、それを受け入れなかった。結果的に、スターリン体制に原水爆の開発に十分な時間の余裕が与えられてしまった。
そのあいだ、戦勝者の英米側は、なるべく自分たちが覇権を維持できるように、国連という組織をつくった。第一次世界大戦後につくられた国際連盟は、明らかに二重の性格を持った。平和維持の機関、仲裁や介入によって紛争を防ぐ機関であった一方で、むしろそれよりも、戦争を起こしたドイツを罰するという性格のものだった。
第二次世界大戦後の国連は、さほど露骨なものではなかったが、それでも、「戦勝国の国連」であった。国連憲章そのものに、ドイツと日本が簡単に「敵国」と明記されている。両軍が国連の加盟国になった60年代でも、憲章の「敵国」条項は修正されなった。
国際平和を保障する機関を作る第3回目の機会は、冷戦の崩壊の後だが、ソ連崩壊後にできたエリツィン時代のロシアは、ますます腐敗にふけり、国際的に建設的な機能を果たす国ではなくなった。プーチン政権下になり、腐敗の度合いが減ってロシア外交の積極性をかなり取り戻したが、もう遅い。新しい冷戦体制がすでに確立されていた。
究極的に、長期的により決定的となった米中冷戦が、ますます国際政治の枢軸となった。”
-切抜/ロナルド・フィリップ・ドーア(イギリスの社会学者、1925年生)「戦後70年に、憶う」‘今我々は、次世代の人々に何を伝え、何を残せるのか’より-