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・・自己を知る時、
知る自己が知られるのではなくて、知られるのは知られる自己だけである。
すなわち知られるものの中には知る自己は入らないのである。
従って、知られる自己は、自己の全体ではないわけである。
・・自己を知るとは、自己の非を知ることなのである。
自己の分限は、つねに自己否定の仕方において、私たちに示される。
すなわちわたしたちは、自分が何でないのかに気づくのである。
他人に自己反省を求める場合でも、わたしたちは彼が彼自身の信じているようなものではないことを教えようとする。
自己反省は多くの場合自己の非をさとることなのである。-田中美知太郎「自己を知る」より-
・・自己を知る時、
知る自己が知られるのではなくて、知られるのは知られる自己だけである。
すなわち知られるものの中には知る自己は入らないのである。
従って、知られる自己は、自己の全体ではないわけである。
・・自己を知るとは、自己の非を知ることなのである。
自己の分限は、つねに自己否定の仕方において、私たちに示される。
すなわちわたしたちは、自分が何でないのかに気づくのである。
他人に自己反省を求める場合でも、わたしたちは彼が彼自身の信じているようなものではないことを教えようとする。
自己反省は多くの場合自己の非をさとることなのである。-田中美知太郎「自己を知る」より-