南無煩悩大菩薩

今日是好日也

"My motto is: more good times."

2018-01-30 | 世界の写窓から
(picture & quote/Jack Nicholson)

グラントと言へば、南北戦争の将軍として、また十八代目の米国大統領として名高い人だが、この人が大統領に就任してから当分の間、田舎の自宅からワシントンへ汽車で通っていたことがあった。

ある日のこと、グラントはいつものように借切列車に腰を下しながら、ポケツトから葉巻を一本取出して静にそれに火をつけた。そして香の高い紫色の煙に、犬のように鼻をくんくんさせながら、いい気持になっていた。

汽車が途中の或る小さな駅に停ると、着飾った一人の貴婦人がちょっとした手荷物を抱えながら慌しく入つて来た。

婦人はグラントの前に席を占めた。それまで南北戦争当時の追懐か何かに思ひ耽っていた大統領は、眠そうな眼をちょっとあけて、自分の前に坐った婦人の様子をちらと見たらしいが、性来婦人というものにあまり趣味を持っていなかったこの軍人大統領は、そのまま又眼を細めてじっと葉巻をふかしていた。

すると、だしぬけに癇走った女の声が聞えた。グラントは昼寝をしていた鴨のように、大儀そうに片眼を明けた。見ると、件の婦人が目くじら立ててこちらを睨んでいた。

「あなたどうぞ煙草をお止め下さい。あたし煙っぽくて堪りませんから。」

グラントはそれを聞くと、のみさしの葉巻をそのまま窓の外に投げ棄てた。そしてあけていた片眼をもとのように静に閉じた。無口な大統領は何一つものを言わなかった。

件の婦人客が、不作法な紳士をやりこめた嬉しさに胸をわくわくさせていると、汽車はまた次の停車場に着いた。

すると、駅長が静かに扉をあけて入って来た。そしてその婦人客を見ると声を尖らして言つた。

「あなた。すぐに此処を出て行って下さい。こちらは大統領閣下の借切列車なんですから。」

大統領の借切と聞くと、婦人は顔を真赤にした。そして手荷物を抱へて逃げるように姿を隠した。

(文/薄田泣菫 茶話「喫煙禁止」より)
コメント (2)
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