南無煩悩大菩薩

今日是好日也

みそにはこうじ、玄関には玄関。

2018-06-24 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

ある日、友人の紹介で人が来た。客は、わたしをつかまえてさっそく質問を発した。

「先生、料理の根本義についておきかせください」
そこで、わたしは言下に答えた。
「食うために作ることだ」
客は物足りぬ顔をしながらまたきいた。
「食うために作ることですか、先生。そんなら、なんのために食うのですか」
「そりゃ生きるためにだ」
「なんのために生きるのですか」
「死ぬためにだ」
「まるで先生、禅問答のようですね」
わたしは笑いながらいった。

「君がむずかしいことを聞くからだ。料理の根本義について……なんぞいい出すからだよ。もっと、あたりまえの言葉できけばいいではないか。むずかしい言葉を使わぬと、本当のことや、立派なことがきけないと思うているとみえるね」
客はあわてていった。
「いえ、決して……。では、あたりまえの言葉で伺ったら、先生は本当のことを教えてくださいますか」
「うむ、あたりまえの言葉で聞いたら、あたりまえのことをいってやるよ」
客は、ここでもまたあわてていった。
「あたりまえのことなら、伺いたくないのです。先生、本当のことをききたいのです」

「あたりまえのことが、一番本当のことだよ。君は、本当のものを見ないから見まちがうのだ。耳は、本当のことをききたがらない。舌は本当の味を一つも知らないから、ごまかされるのだ。手は、あたりまえのことをしないから、庖丁で怪我をするのだ」
「分ったようで、分りません」

「そうだ、なかなか、あたりまえのことは分りにくいものだ。いや、分ろうとしないのだよ。ハハハ……」。
 
客は帰りぎわに、なにか書いてくれといった。玄関へかけるのだという。そこでわたしは、さっそく客のいう通りに、色紙をとりあげ、筆をもった。
「玄関へかけるのですから」
客は、念を押して頼んだ。
 
そこでわたしは「玄関」と書いて渡した。
「先生、玄関と書いてくださったのですか」
「そうだ」

客は、まだなにかいいたそうであったが、なにもいわずに帰って行った。

玄関であっても玄関でないような玄関もある。さっきの客も、入り口だか、便所だか、靴脱ぎだか、物置だか分らぬような玄関を作ったのかもしれない。そうでなかったら、あんなこねまわした質問をするはずがない。さっきの客も、また、その客を訪ねて行く客も、間違わぬようにと思って、わたしは親切に玄関と書いてあげた。
 
樹木でも、日陰に植えて育つものを、日向(ひなた)に植えたり、砂地を好む木を赤土に植えたりしては可哀そうである。それと同じように、料理も、焼けばいちばんおいしいものを、煮てみたり、刺身にすればいい持ち味のものを焼いたりしてはいないだろうか。わたしは先ほど客に、食うために作ることだ、と返事をしたが、食うためにということは、馬や牛が食うためではないはずだ。

手のこみ入ったものほどいい料理だと思ってはいないか。高価なものほど、上等だと思っていないか。わたしのいいたいことは、たくさんある。わたしの話すことは、それこそほんの料理の玄関にすぎないかもしれない。だが、諸君、先生を訪(おとなう)なら、堂々と玄関より訪れたまえ。そして、無事に玄関を通してもらえたら、すなわち諸君の足で廊下を通って主人に会うて、諸君自身の口でしゃべりたまえ。

諸君は諸君の目で見、耳で聞き、舌で味わいたまえ。そして、諸君の一時的な、アプレゲール的でない頭で考えて、充分に楽しい生活をしてくだされば、わたしの喜びはこれに過ぎるものはない。

切抜/北大路 魯山人「尋常一様」より
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