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社会的シナジー(相乗効果のある協力)の備わった社会制度の下では、利己的な目的を追求することが必然的に他人を助けることにつながり、また愛他的・利他的で他人を助けようとする行為が、自ずと、そして必然的に自分自身にも利益をもたらすということである。
自己実現者は利己主義と利他主義という二分法を超越した存在であり、そのことはさまざまな言葉で表現することができる。
自己実現者は他人の喜びによって自分の喜びを得る人間である。つまり、他人の喜びから利己的な喜びを得るのであるが、これは利他主義的なことといえる。
たとえば、私が自分の幼い娘に私のイチゴを与え、そのことから大きな喜びを感じるとしよう。自分で食べても喜びを味わえることは確かだ。だが、大好物のイチゴをおいしそうに食べる娘の姿を見て楽しみ、喜びを覚えるとすれば、この私の行為は利己的なのだろうか、それとも利他的なのだろうか。
私は何かを犠牲にしているのだろうか。それとも、愛他的な行動を取っているのか。結局は自分が楽しんでいるのだから、利己的なのだろうか。
ここではっきり言えるのは、利己主義と利他主義を互いに相容れない対立概念としてとらえることには何の意味もないということである。
両者は一つに溶けあっているのだ。私が取った行動は全面的に利己的でもなければ、全面的に利他的でもない。利己的であると同時に利他的であると言っても同じことである。より洗練された表現を用いれば、シナジーのある行為なのである。
すなわち、我が子のためになることは私自身のためになり、私自身のためになることは我が子のためになる。また、我が子に喜びをもたらすものが私に喜びをもたらし、私に喜びをもたらすものが我が子に喜びをもたらす。互いを隔てる境界線は消え去り、二人は同化し、機能という点から見て理論上は一つの単位となるのである。
このような例は頻繁に見受けられる。深い愛情で結ばれた夫婦がいれば、我々は二人を一つのまとまりとして扱うようになるものだ。夫婦の片方を侮辱すれば、その配偶者をも侮辱したことになり、逆に一方を誉めれば他方も心地よさを感じるのである。このことは愛とは何かを実に見事に言い表している。
すなわち、愛とは二人の人間の異なる欲求が融合し、共通の欲求をもった新たなまとまりが誕生することなのだ。また、こうも言えよう。相手の幸福が自分を幸福にする時、相手の自己実現が自分の自己実現に劣らぬ喜びをもたらすとき、さらには、「他人のもの」と「自分のもの」との区別がなくなるとき、そこに愛は存在するのだ。
二人は共有し、「われわれが」「われわれを」「われわれのもの」という言葉が聞かれるようになる。相手の幸福が自分の幸福にとって必須の条件となっている状態。それを愛と定義することもできる。
シナジーも愛に似ており、愛における同一化と同じものが認められる。シナジーとは、複数の人間を事実上同一人物として扱えることだと言ってもよいだろう。複数の人間があたかも一人の人間であるかのようになっていて、協力し、融合して、新たなまとまりを形成すること。それがシナジーなのである。
このまとまりという単位は各個人を包含する上位概念であり、そこでは個人の差異が解消されている。
-切抜/A.H.マズロー「シナジーに関する覚え書き」より
社会的シナジー(相乗効果のある協力)の備わった社会制度の下では、利己的な目的を追求することが必然的に他人を助けることにつながり、また愛他的・利他的で他人を助けようとする行為が、自ずと、そして必然的に自分自身にも利益をもたらすということである。
自己実現者は利己主義と利他主義という二分法を超越した存在であり、そのことはさまざまな言葉で表現することができる。
自己実現者は他人の喜びによって自分の喜びを得る人間である。つまり、他人の喜びから利己的な喜びを得るのであるが、これは利他主義的なことといえる。
たとえば、私が自分の幼い娘に私のイチゴを与え、そのことから大きな喜びを感じるとしよう。自分で食べても喜びを味わえることは確かだ。だが、大好物のイチゴをおいしそうに食べる娘の姿を見て楽しみ、喜びを覚えるとすれば、この私の行為は利己的なのだろうか、それとも利他的なのだろうか。
私は何かを犠牲にしているのだろうか。それとも、愛他的な行動を取っているのか。結局は自分が楽しんでいるのだから、利己的なのだろうか。
ここではっきり言えるのは、利己主義と利他主義を互いに相容れない対立概念としてとらえることには何の意味もないということである。
両者は一つに溶けあっているのだ。私が取った行動は全面的に利己的でもなければ、全面的に利他的でもない。利己的であると同時に利他的であると言っても同じことである。より洗練された表現を用いれば、シナジーのある行為なのである。
すなわち、我が子のためになることは私自身のためになり、私自身のためになることは我が子のためになる。また、我が子に喜びをもたらすものが私に喜びをもたらし、私に喜びをもたらすものが我が子に喜びをもたらす。互いを隔てる境界線は消え去り、二人は同化し、機能という点から見て理論上は一つの単位となるのである。
このような例は頻繁に見受けられる。深い愛情で結ばれた夫婦がいれば、我々は二人を一つのまとまりとして扱うようになるものだ。夫婦の片方を侮辱すれば、その配偶者をも侮辱したことになり、逆に一方を誉めれば他方も心地よさを感じるのである。このことは愛とは何かを実に見事に言い表している。
すなわち、愛とは二人の人間の異なる欲求が融合し、共通の欲求をもった新たなまとまりが誕生することなのだ。また、こうも言えよう。相手の幸福が自分を幸福にする時、相手の自己実現が自分の自己実現に劣らぬ喜びをもたらすとき、さらには、「他人のもの」と「自分のもの」との区別がなくなるとき、そこに愛は存在するのだ。
二人は共有し、「われわれが」「われわれを」「われわれのもの」という言葉が聞かれるようになる。相手の幸福が自分の幸福にとって必須の条件となっている状態。それを愛と定義することもできる。
シナジーも愛に似ており、愛における同一化と同じものが認められる。シナジーとは、複数の人間を事実上同一人物として扱えることだと言ってもよいだろう。複数の人間があたかも一人の人間であるかのようになっていて、協力し、融合して、新たなまとまりを形成すること。それがシナジーなのである。
このまとまりという単位は各個人を包含する上位概念であり、そこでは個人の差異が解消されている。
-切抜/A.H.マズロー「シナジーに関する覚え書き」より