南無煩悩大菩薩

今日是好日也

酩酊神秘主義

2019-02-26 | 酔唄抄。
(gif/source)

‘人類に対するアルコールの支配力は、疑いなく、人間の神秘的能力を刺激する力からきている。その能力は、冷徹な事実としらふのときの乾いた批判によって通常砕かれてしまうものだ。

しらふであることは、縮小し、区別し、ノーと言う。酔いは拡大し、統合し、イエスと言う。これは実際、人間の中にある「イエス」機能を、極めて強く刺激するのだ。これはこれを信奉する者を、冷たい周縁から灼熱の核へと連れていく。

彼を一瞬、真理と合体させる。

人が酔いを求めるのは、単なる倒錯からではない。貧しい者、無学の者にとって、これは交響曲のコンサートや文学の位置を占めている。そして、素晴らしいものだと我々がただちに認識するものを、我々の多くが、ほろ酔い程度にたしなむことしか許されず、たっぷり飲んだら人を堕落させる毒になってしまうことは、人生の深層にある神秘と悲劇の一部である。

酩酊時の意識は神秘的意識の一片なのであり、酩酊時の意識についての我々の総合的見解は、より大きな全体についての我々の見解の中に位置づけられる必要がある。’ -ウィリアム・ジェイムス-

また、プラトンは極めて具体的に、酒を飲むのはジムに行くようなものだと言っている。

最初は上手くいかず、苦痛で終わる。だが練習すれば完璧になる。たくさん飲んでも自分を保てるなら、理想的人間である。人と一緒にいるときにそれをできれば、自分が理想的人間であることを世界に証明したことになる。酒の影響下にあるときでさえ、自制心という偉大な徳を披露しているわけだから。

自制心とは勇敢さのようなものだとプラトンは言う。人が勇敢さを披露できるのは、危機にあるときだけである。人が自制心を披露できるのは、酒をたらふく飲んだときだけである。勇敢さは学習可能だ。毎日を戦いに費やせば、勇敢になるよう自分を鍛えられる。毎晩を飲酒に費やせば、より高レベルの自制心が持てるよう自分を鍛えることができる。

‘第一には人格を試すこと、第二には人格を鍛えること。これらの目的に、ワインを盛大に用いる(もちろん注意を払って用いた場合であるが)こと以上に、適した方法がほかにあるだろうか。これ以上に安上がりで、悪意のない方法があるだろうか。’ -プラトン-

基本的にプラトンは、酔っている人物が信用できる人物だった場合、その人物はどんな局面でも信用できると考えた。さらに、飲酒と言うテストには実質マイナス面がない。商取引に入ってから相手が不誠実だと分かった場合、あなたは金銭的損失をこうむる。だが、一緒に飲んで相手の真の人柄を知ることには、何のリスクもない。

これらすべての論理的帰結として、禁酒主義者は信用できないということになる。だから古代ギリシャにおいて酩酊は、奇妙であり、かつ入り組んだ事柄だった。酒は飲まねばならない酔っぱらわねばならない。だが自分が何をやっているかがわかっていなければならない。

‘我々は、酩酊時においても徳を披露し、荒れ狂う酒の海に悠然と舟を走らせねばならない。’

-引用/マーク・フォーサイズ「酔っぱらいの歴史」より

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