(Musashi Plain (Musashino), from the series Tales of Ise/Kajita Hanko (Japanese, 1870–1917)/source)
むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、「この野はぬすびとあなり」とて、火つけむとす。女わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
昔、男がいた。人の娘を盗んで、武蔵野へ伴って行くと、盗人であるということで、国守に捕縛されてしまった。その折、男は、女を草むらの中に置いて、逃げたのである。跡を追ってきた連中が、「この野は盗人がいるそうだ」と言って、火をつけようとする。女は悲しんで、
武蔵野は今日は焼いてくださるな。私の夫も隠れているし、また私も隠れています。
と歌を詠んだのを聞いて、追っ手の人たちは、女をとりもどして、捕えた男といっしょに連れていった。
昔、男がいた。人の娘を盗んで、武蔵野へ伴って行くと、盗人であるということで、国守に捕縛されてしまった。
・・・・・
男は狼狽していた。
まさか追っ手が来るはずも無いと、思い込んでいたからである。拐かしなど日常茶飯事。いなくなった女については運が悪かったと、女の家の者達は思うはず。少なくとも男は、そう思い込んでいた。
だから足弱な女を連れて逃げる手段など、用意していようはずも無かった。男が追っ手を近くまで引き寄せてしまった時点で、女と共に捕まることが確定していたのである。
ざわざわとした人の声が、やがてはっきりとしてくる。男の特徴を声々にわめきながら近づいてくる。それは追跡者の手が、ほんのすぐそこにまで迫ってきたことを示していた。
「ねえ、大丈夫・・・?」
「・・・・・・。」
緊張のあまり息が荒くなる男の姿を見かねたのか、女が呼びかける。だが男は答えられない。答えようにも考えがまとまらない。
冷静さなど保てるはずもなかった。誘拐は犯罪である。露顕すれば男の官位は剥奪される。それに何より、男の正体が知られれば、血統が呪いのようにして噂されるに違いない。自身に流れる血の高貴さを拠り所にしてきた男にとって、それは何より恐ろしいことだった。
風の音に、鳥のばたつきに、男はひるむ。草むらは男の姿を隠すが、男自身の視界も妨げる。思考のまとまらない男には、あらゆる生命の気配が自身を見張っているかのように思えた。
背後で、コキリ、と枝か何かの折れる音がした。
限界だった。張り詰めた神経が、根を失った。
どこに、誰といるのかも忘れ、視界に何も映さないまま。
男は、逃げた。
追い詰められて我を失い、女を草むらの中に置いたまま、慌てふためいて逃げたのである。
-引用/「焼かれるイケメン 伊勢物語12」より