鼠小僧治郎吉親分は金の無心を受けると、いつも胡坐の股座から金をつかみ出して、「さあ、持ってけ」と言いながら後ろ向きで差し出し決して相手の顔を見ようともしなかったという。
子分どもはそれを不思議に思って「親分どうして金を貸すのにいつも後ろ向きなのはどうしてですかい」と聞いてみた。
「さればよ、人の身の上はあてにはならぬ。今日絹の着物を着ていても明日にゃ菰を着るようになるかもしれぬ。その時もし借り手の顔に見覚えがなければ返してくれとは言わずに済むし、借り手もまた心苦しい思いをせずに済むわけだ。それでわしは借り手の顔は見ないようにしておる」
と答えたそうだ。
私たちがよんどころなく借金したら通常、借りた自分よりも貸した人の方が記憶が良いものであって、ややもすればこれを恩に着せたり、まわりに吹聴したりするものであると思わなくてはならない。
また返すときには借主の催促を待たず借りる時の地蔵顔で返すのも大事である。またどうせ金を貸すのなら治郎吉の心をもってわが心とすれば、借主が返してくるときの閻魔顔もまた見なくてよくなるのである。
ー出典/酒井不二雄「動的人格の修養」より
ちなみに肉親の葬式も挙げられずにいる清貧の友人に、「かそうか?」と言ったら彼はこう答えた。
「いや、土葬だ」。
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