遠近法では、かなたは小さくなる。
すこぶる小さくなってはいくが、閉ざされてしまうことは無い。
進めば進むほど、また開けてくる。
実際には、とめどもなく、いってもいっても行き着くことなく開けている。
先の不安におののくことなかれ。遠望者よ。
進めば必ずや開かれん。
Vロードとは、このような意味もあろうかとや思わん。
夏雲の なみたちる先 我知らん
こころはせるも ふるさとのそら。
-無山人-
羊歯類が老木に寄生している。
羊歯は見るからに元気で軽やかだ。
木は羊歯によりなんらかの恩恵は受けているのであろうか。
互いに与えつつ奪いつつの共生のリレーションシップを願う。
傍目には分からない。
どだいわからないのは、どちらが土台となっているのかだ。
羊歯によって木はわずかな命目を保っているのかもしれない。
そうであってほしい。
それなしで、生きるということは、きっとつまらないであろうから。
共生。
禿鐘。
はげかね?
いえ。ぼうずです。
ならせるのかね?
それはむりでしょう。
昔から、ごんたくれ、といわれてはおりますが、ゴン!とはなりません。
ならぬなら はいってしまえ ならぬなか。
・・・。
自分で言うのもなんですが、ばかだねぇ。
石仏は、竹を拝んでいるようにみえる。
が。拝んでいる先に竹が生えてきたのである。
しかし。もしかしたら。拝み倒して、竹を生やしたのかもしれない。
如何様にも観るものの心次第に見える。
そこが、案外間違いの元だったりする。
石仏の風化と、青竹の成長が、えもいえぬ借景と馴染を見せる。
なじんでいく。
時間がなじんでいくとは、偶然の積み重ねのようにも思える。
少し足を伸ばせば、知らない街の風景に出会う。
ちょっとした時間のすれちがいが、喧騒の中に浮かび上がり、ふっとした静粛を生んだりする。
異邦人の感覚に遊べるのは、何も海外にまで出る必要も無い。
知らない街で知っている人をみながら、そんなことを考える。
知っている街で知らない人をみても起こらない感覚でもあろうか。
心地よくも嬉しく呑んだほろ酔い気分が、私の思考をトリップさせる。
ちょっとふりむいてみただけの異邦人。