南無煩悩大菩薩

今日是好日也

それもこれも修行

2012-07-12 | 世界の写窓から
(写真/林忠彦[修行僧とストリップ劇場])

・・・中品以上の人とても、口に月雪の寂をいえども、身は花鳥の色に惑う。-俳諧十論より-

花鳥どころか酒色に惑い、中品どころか大品を何本も開ける品の悪いわが身としてはだ、「下品な人が下品なのは下品じゃないのよ、下品な人が上品ぶるから下品なの。」とある大御所が云われたことを守るようにしている。

つまり、わしゃ助兵衛やけどイヤラシイ男にはなるまい、だとか、下品には違いないが見苦しいとは思われまい、といったようなこと。
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失われました、そして見つかりました。

2012-07-11 | 古今北東西南の切抜
(LOST&FOUND PROJECT)

・・・それから少しして、生存者の捜索が終わりガレキの撤去が始まると、
自衛隊や消防署員や警察官や、町にいるいろんな人がその中から写真を拾いあげ、
別の場所に集めておくようになりました。
それは誰に頼まれたわけでもなく、
はっきりとした目的意識があったわけでもありませんでした。
ほとんど何もなくなってしまった場所で、戻るものが何もない場所で、
それでも何かを戻せたらと思ったのではないでしょうか。
集められた写真は体育館いっぱいになっていきました。

・・・写真の状態は様々でした。
比較的きれいなものから、バクテリアによる浸食が進み表面の像が
ほとんど溶けてしまったものまで。

・・・ぼくらは楽しい時、何かいいことがあった時、
誰かに見せたいものと出会った時写真を撮ります。

ここにある写真も同じでした。
一枚一枚その想いに大小はあれど、誰かが残しておきたいと思った場面でした。

この写真たちを前に何を思うべきなのか、答えは出ません。
見つかった写真を喜ぶべきか、もう持ち主の手に戻らない写真を悲しむべきなのか、
それともいなくなってしまった人たちのことか。
何か答えを出そうとするたびに、足りないものが出てくるような気がします。

それでも見つめることからしか何も見えてこないのだと思います。

-抜粋/Lost&Found プロジェクトより-
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初恋とはナンゾヤ

2012-07-10 | 意匠芸術美術音楽
(写真/林忠彦/焼け跡の母子)

こい、と言う字を漢字で書けば 糸し糸しと言う心

と都都逸にもあるように、古い漢字では、恋は「戀」と書く。

では、初めての恋とはナンゾヤ。初めてがつくとどうも様子が違うように思える。

戦後すぐの焼け後の崩れ残った外壁に叫ぶような落書きがある。その横を背中の子を気遣いながら歩く母。

初恋に限らず、いたるところ「ナンゾヤ?」の時代の写真だ。
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官能の黒、気品の白。

2012-07-09 | 世界の写窓から
(photo/source)

体型に美しくフィットした官能的とさえいえるゼブラ模様は、どの個体として同じ柄はなくそれぞれに特有の縞を持っています。

俊足でじゃじゃ馬で気位も高く人になつかないというイメージがあるからでしょうか、白と黒というシンプルな縞模様には気品さえ感じてしまいます。


シロと呼ぼうかクロと呼ぼうか ほんにむずかし 君の名は


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MILKY WAY

2012-07-07 | 世界の写窓から
photo/source)

先日ある人が短冊に願いを書くときは、里芋の葉に天水を受けてそれで墨を摺ってサラサラと書くのだということを教えてくれた。天の川の水を受ける・・風流なものです。

笹の葉も芋の葉もサラサラの今日は七夕です。

街路では、紫陽花のようなしっとりと涼しい浴衣の華がポツポツと咲いています。

梅雨時でどうかとも思われましたが、ここ大阪では晴れ間がのぞきはじめました。今夜は忘れず空を見上げてみようと思っとります。

そう、

見る気 上 
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最後の手段

2012-07-06 | 世界の写窓から
(source)

蜜蜂に刺されると痛い。しかし蜜蜂はもっと痛い、彼らは一生に一度しか刺せない。刺すと死んでしまう。
彼らの針は発射型ではなく投げ縄のように体の内臓組織と繋がっているようだ。

何かきっとそういう造りのほうが、自分の命を犠牲にしてまでもその手段を選んだということは、それに見合うだけの生態上の利点があるに違いない。

命と引き換えにしてまで守るものとは何だろう。

ただ言得ることは、最後の手段は本当の最後までとっておくべきだ。
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折々にふれながら

2012-07-05 | 意匠芸術美術音楽

今和次郎さんは、
「生活が大きく変化した関東大震災後に今和次郎が創始した考現学は、世相・風俗を野外観察、記録することで、庶民の生活文化の変化をとらえようとする学問です。・・・ライフスタイルやモノと生活の関係が急速に変化する現在、そして些細な日常のいとおしさに気づいたいま、モノに着目して身近な風俗の一切を丸ごと記録することの迫力とその意味を、あらためて考えます。」-みんぱくエキシビションより抜粋-
と言う人です。

些細な日常のいとおしさに端から気付いていた人のようです。

権威に左右されない人の営みの中にあるアーティスティックなもの、そういうコトや人物に私は惹かれます。
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天命の鏡。

2012-07-04 | 古今北東西南の切抜
切抜/AFP)

人間は彼に、ロンサムジョージと名を付けました。

地球上に残っていたひとりぽっちの個体は、水飲み場の方に長い首を伸ばしたままこと切れていたといいます。

100年を超える生涯を、人間を受け入れることはしないが、あえて拒否もしない、そんな姿勢で生き抜きました。

孤高のピンタゾウガメ、2012年6月24日未明、瞑目す。
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マッチベターということについて

2012-07-03 | 世界の写窓から
(© Ikko Narahara Garden of Silence 1958)

人に棄てられるるを厭わざれ 神汝を受け容れ給わん

その言葉の下をうつむいた修道士が行き過ぎる。

先日、還暦も過ぎた私の先輩が女房に逃げられた。いや、正確に言うと女房に棄てられたのかもしれない。

しかし、元来がポジティブな人であるからして、その話を私にする時も暗さは微塵も見せなかった。

先の言葉を送ろうと思っていたが、釈迦に説法かとも思い止めた。
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想像連想を産む着想。

2012-07-02 | 意匠芸術美術音楽
(design/Ryuichi Yamashiro 1954)

木の集まりは、どれぐらいを林といい、どれほどから森と知覚するのだろう。

森田さんと林田さんと木田さんと、名前を隔てた田んぼのある風景はどれくらい違うのかと想像してみる。

そして西田哲学の、「森は木の集合であって之を分かてば森なるものがない、社会も個人の集合で個人のほかに社会という独立な存在はない。」という言葉の連想に至る。

シンプルな着想ながら人の想像と連想を呼び起こすも、作品のもつ「力」だとおもう。


そういえば、日本の苗字などでも着想ものが色々あることをついでに思い出した。
例えば、漢字の「十(じゅう)」と書いてなんと読むか?
読みは「つなし」さんだという。
つまり、ひとつふたつみっつよっつ・・・ここのつ、とおで、十だけ「つ」がない。
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