(書/無事 仙和尚)
「僧肇(そうじょう)は『天地と我は同根。万物は我と一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人に対して、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつ「世人はこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録より)
世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全く見えていない。つまり花を真に「今ここに」咲く花として成立させている本源的存在性が見えていないのだ。このような形で見られた花は夢の中に現われた花のように実は取りとめもないものだ、というのである。(井筒俊彦「意識と本質」より)
「無事」という言葉が持つ意味に対する関心から、上記のような文章に出会った。
とりとめもないが、古賀まり子氏の「踏ん張って生きても一人梅の花」という句にも出会い、それがまた違う景色に見えてきた。
無事を無事として成立させている本源的存在性の在りかに関心が向くようになった。
何事かあっても私はまだ無事らしいのである。
「僧肇(そうじょう)は『天地と我は同根。万物は我と一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人に対して、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつ「世人はこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録より)
世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全く見えていない。つまり花を真に「今ここに」咲く花として成立させている本源的存在性が見えていないのだ。このような形で見られた花は夢の中に現われた花のように実は取りとめもないものだ、というのである。(井筒俊彦「意識と本質」より)
「無事」という言葉が持つ意味に対する関心から、上記のような文章に出会った。
とりとめもないが、古賀まり子氏の「踏ん張って生きても一人梅の花」という句にも出会い、それがまた違う景色に見えてきた。
無事を無事として成立させている本源的存在性の在りかに関心が向くようになった。
何事かあっても私はまだ無事らしいのである。
(gif/source)
時は誰にでも平等に与えられる。
その時にしかでない価値を高めようとすれば、優先順位を間違えないことだ。
優先すべきことに迷う場合は、劣後順位を考える。
優先順位と劣後順位をセットに考えることで、順番というものを把握しやすくなる。
もちろん順位には相対的な側面もあり、時間軸の中で変化もするから、あらかじめ考えに入れておいた方がいいようだ。
(おまけ/original unknown)
時は誰にでも平等に与えられる。
その時にしかでない価値を高めようとすれば、優先順位を間違えないことだ。
優先すべきことに迷う場合は、劣後順位を考える。
優先順位と劣後順位をセットに考えることで、順番というものを把握しやすくなる。
もちろん順位には相対的な側面もあり、時間軸の中で変化もするから、あらかじめ考えに入れておいた方がいいようだ。
(おまけ/original unknown)
(street art/unknown)
その取り組みが正しいかどうかと、その取り組みが実行できるか否かはまったく別問題だ。能力を見誤り、ただ実行を起こすことは単なる無謀な取り組みといえるだろう。
かくあるべき、だとか無理をしないで、それぞれの範囲で生きた方がいい。
(gif/source)
その取り組みが正しいかどうかと、その取り組みが実行できるか否かはまったく別問題だ。能力を見誤り、ただ実行を起こすことは単なる無謀な取り組みといえるだろう。
かくあるべき、だとか無理をしないで、それぞれの範囲で生きた方がいい。
(gif/source)
(photo/source)
「灯ともし頃になると いつも僕は呑みたくなる そして翌朝はいつも後悔をする 後悔をしながら呑むからこそ 僕は詩人なんです」-萩原朔太郎-
詩人ではなくとも、詩を詠ってみたい夜はある。
「灯ともし頃になると いつも僕は呑みたくなる そして翌朝はいつも後悔をする 後悔をしながら呑むからこそ 僕は詩人なんです」-萩原朔太郎-
詩人ではなくとも、詩を詠ってみたい夜はある。
寅さんはおいちゃんにいつも、「バカだねぇー」と云われ、親鸞さんは自らを「愚禿」と謂い、宮澤賢治さんは「デクノボー」と著した。
セルフポートレイトとは、自画像を称するが、古今東西これを極めた人は立派な先人となっているようである。
云うのでも言われるのでも謂われでもかまわないが、自分がどんなバカかを知りたいのである。
自分がどんな種類のバカなのかがわかれば、バカでももう少しやりようがあるように思うのである。
古文には、こんなたとえがある。
「夫(それ)、馬鹿の名目一ならず、阿房あり、雲津久(うんつく)あり、部羅坊(べらぼう)あり、たはけあり、また安本丹の親玉あり」
「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて だれによるべき よくととのへ うれしおのれこそ まことえがたき よるべをぞ得ん」 -法句経より-
もうひとつ、
「見ん人のためにはあらで奥山におのが誠を咲く桜かな」 -白隠禅師-